市場原理ってなんですか?(ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』読書メモ)

 今回紹介するのはこちら。

ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか 新自由主義の見えざる攻撃』

 

 本書の存在は前から知っていたが、前回紹介した論文でヒースが新自由主義批判本の例として紹介していたため、重い腰を上げて読んでみることにした。

kozakashiku.hatenablog.com

 と言っても、もともと苦手なタイプの本なので、メモをとりながら読めたのは第一部(1~3章)と終章だけで、具体的な事例を扱っている第二部についてはほとんど論評できない*1。読んだ部分にしても、正直半分くらいは何を言ってるのかよく分からなかった。が、ここではとりあえず力の限り頑張ってみたい。

 

 

新自由主義は「お金」の問題ではない

 本書の中心的主張は、新自由主義が生活のあらゆる領域に浸透していき、政治が経済の言葉で語られるようになったことで、人々はホモエコノミクスとして行動するようになり、民主主義に参加する政治的主体(ホモポリティクス)としての側面が消滅していったというものである。ここではこうした主張は扱わずに*2、著者による「新自由主義」概念の扱い方を見ていきたい(あらかじめ断っておくと、本書における「新自由主義」概念は、新自由主義批判論の中でもかなり曖昧で拡張的なものなので、本書を批判したからといって、他の新自由主義批判に対してその批判がどこまで当てはまるかは正直よく分からない)*3

 まず本書での新自由主義の定義から見ていこう。著者は、新自由主義の一般的な定義は次のようなものだと言う。

新自由主義は、もっとも一般的には、経済政策の全体を自由市場の肯定という根本原理に合致するように規定するものだと理解されている。(p23)

 こうして定義される新自由主義の弊害としては、不平等の拡大、露骨な商品化、企業の政府に対する影響力の拡大、経済の不安定化、が挙げられることが多い。こうした議論は、新自由主義を批判する人であれば概ね同意できるものだろう。

 しかし著者は、以上の定義とは異なる形で新自由主義を捉え、異なる悪影響に焦点を当てると言う。ブラウンが依拠するのはミシェル・フーコー新自由主義論であり、フーコーの議論において新自由主義は以下のように定義される。

わたしはミシェル・フーコーらとともに、新自由主義を規範的理性の命令であると考える。その命令が優勢になるとき、それは経済的価値、実践、方法に特有の定式を人間の生のすべての次元に拡大する、統治合理性のかたちをとる。(p26)

 ここだけだと何を言っているのかよく分からないが*4、もう少し説明を見てみよう。上の、新自由主義の一般的な定義においては、新自由主義は「経済政策」の問題だとされていた。しかし著者が採用する定義では、新自由主義は「経済的価値、実践、方法に特有の定式を人間の生のすべての次元に拡大する」ものらしい。もう少し分かりやすい文章を引用してみよう。

新自由主義的合理性の規範や原理は、明確な経済政策を命じるのではなく、国家、社会、経済、主体を構想し語る斬新な方法を提示し、これまでは経済の領域でも活動でもなかったようなものの、あらたな「経済化」を開始する。(p49)

…もし新自由主義的経済政策の多くが放棄されたり、あるいは増加したとしても、そのことによって…民主主義が切り崩されるという状況が和らぐわけではない。強力な銀行規制(銀行の国有化でさえ含まれる)、教育への公的投資、選挙資金改革、機会均等へのさらなる傾注、あるいは富の再分配といったものは、政治的生の経済化、ビジネスの基準による教育のつくりなおし、あるいは選挙を市場とみなすことや政治演説を市場行為とみなすことと共存しうる。(p232)

 つまり、著者によれば新自由主義は「経済政策」の問題に留まらないのだ。たとえ「経済政策」が新自由主義的でないものに切り替わったとしても、新自由主義の魔の手からは逃れられないらしい。

 経済政策の問題に限定されないなら、お金に関すること全般についての話なのだろうか。例えば人々が金儲けのことしか考えなくなったのは新自由主義の影響だ、というような話をしているのだろうか。そうではない、と著者は言う。

重要なのは、この経済化がかならずしも貨幣化をともなっていないかもしれない点である。つまり、わたしたちは現代の市場の主体と考え、行動するかもしれない(そして新自由主義がそうする主体としてわたしたちに呼びかける)が、この市場では、貨幣的富の生成は、たとえば教育、健康、体力、家庭生活、地域といった問題に取り組むときに直接関係しているわけではない。(p26)

 

競争=市場原理?

 新自由主義は経済政策の問題や、お金に関する問題に限られたものではないらしい。では、結局なんなのか。

重要なのは、新自由主義的合理性が市場モデルを全ての領域と活動へ――貨幣が問題ではない領域であっても――散種し、人類を市場の行為者であり、つねにどこでもホモ・エコノミクスでしかありえないものとして設定するという点にある。(p27:太字は筆者)

 どうやら、市場モデルが生活のあらゆる領域に浸透していき、人々はあらゆる場面で市場に参加するホモエコノミクスとして行為するようになる、というのが著者の新自由主義論の骨子のようだ。

 でもこれだけではまだよく分からない。人々がホモエコノミクスとしてふるまうようになるというのは、いったいどういうことを指しているのだろうか。著者はいくつか例を挙げている(p27)。インターネット恋人紹介事業が、愛情の投資収益の最大化を謳い、人々が企業家のようなやり方で恋愛生活を送ること、学生が志望大学に合格するために(収入の増加を期待していなくても)無給のボランティアを行うこと、親が(成長した子どもの稼ぎなどは特に考えずとも)倍率の高い学校に子どもを入れさせようとすること、などなど。それどころか、SNSで「いいね」をたくさん得ようとすることも、ホモエコノミクス的なふるまいということになるらしい。

ソーシャル・メディアの「フォロワー」や「いいね」や「リツイート」をつうじてであれ、あらゆる活動と領域の格付けや評価を通じてであれ、あるいはより直接的に貨幣化された行為を通じてであれ、教育、訓練、余暇、再生産、消費やその他多くのものの追求はますます、自己の未来の価値を高めることに関わる戦略的な決断と実践として構成されていく。(p30)

 しかしここで疑問が湧いてくる。言うまでもなく、市場における競争*5SNS上のステータス競争、メリトクラシーにおける選抜競争(その他さまざまな競争)は、それぞれだいぶ性質の異なるものだ。これらを一括りにして、「市場モデル」、「ホモエコノミクス」というラベルを貼りつけるなら、そのラベルの内実は非常に抽象的なものにならざるを得ない。つまり、「市場モデル」は事実上、「競争」一般を指す概念となってしまっているのではないだろうか?*6

 本書では「市場モデル」という言葉が使われているが、同様の問題は「市場原理」という言葉にも当てはまると思われる。「市場原理」という言葉もまた、価格メカニズムなどに意味を限定して用いられている場面もあるとはいえ、市場とは関係ないあれやこれやの「競争」を括るための言葉として濫用されがちであり、「市場モデル」とほぼ互換的な語と考えてよいだろう。

 問題は、このような形で抽象的な用語を使うと、社会の様々な領域に「競争」っぽい要素を見出すだけで、新自由主義が浸透している証拠と見なせてしまうということだ。ここにも市場原理、あそこにも市場原理、というわけである。こうした競争の中には、問題と見なされるべきものもあるだろう。しかしそれらを一つに括って、背後に何らかのイデオロギーを想定するのは、根拠に乏しいのではないだろうか。著者によると、新自由主義はシロアリのように、毛細管のようなやり方で社会生活の諸領域に入り込んでいったという(p32)。もちろん、そのような主張の根拠を示さなければ、十分な説明にはならない。

 

競争それ自体の評価

 著者が(市場競争を含む)競争それ自体をどう評価しているかは判然としない。競争が分をわきまえず、社会生活のあらゆる領域に浸透している、というのが中心的な主張であるから、競争が分をわきまえている分には問題ないと考えている可能性もある。しかし少なくとも、適切に機能している競争が社会的に望ましいアウトプットをもたらし得るという点にほとんど注意を向けていないのは確かだと思われる。例えば次のような記述を見てみよう*7

新自由主義者にとって、経済競争が本質的で…貴重だが、自然ではないとすると、それは絶えず外側から支えられ、修正されていなければならず、こうした必要性は新自由主義国家のきわめて重要な機能の一つを定義している。統治が介入するのは、競争を生産し再生産するために、競争を促進するか復元するためである。(p65)

 古典的自由主義において国家は市場に干渉すべきでないとされたが、新自由主義国家は市場のために積極的な介入を行う、と言うのだ。著者は、独占市場に政府が介入する競争政策すら新自由主義だと言っているのだろうか。もしそういう主張をしているとしたら、それはもはや左派の論者の多くにも受け入れられないはずだ*8

 著者がどういう立場をとっているのかは結局のところ分からない(本当に独占市場を否定していないのかもしれないし、別の観点から独占市場を批判しているのかもしれない)。しかしここには、多くの新自由主義批判に見られる問題点が示されているように思える。つまり新自由主義批判者は、「競争」を大雑把に捉えているために、(気づかないうちに)「適切に機能してない競争」を肯定してしまったり、「適切に機能している競争」と「適切に機能してない競争」の双方を批判しながら、なんの説明もないまま済ませたりしがちなのだ*9

 これも結局は上の問題と繋がってくる。要するに競争というものの捉え方が大雑把で曖昧なのだ。きちんとした新自由主義批判を行いたいなら、競争という概念の内実をもっときちんと検討すべきではないだろうか。

 

感想

 註でも少し触れたが、新自由主義批判は大雑把に言うと、経済政策を問題にする「経済系」と、社会全般や、あるいは人々の心理を問題にする「人文系」の2つに分けることができる(言うまでもなく「人文系」の方の元祖はフーコーだ)*10。この区分けで言うと、本書は「人文系」の新自由主義批判の典型例だと言えるだろう。ポストモダニズムの用語や文体にある程度慣れていないと読むのが大変だろうが(筆者にとっては大変だった)、「人文系」新自由主義批判に興味のある人は読んでみることをおすすめする*11。「経済系」新自由主義批判を支持する人がこれを読んで、「そうだそうだ」と頷くのか、「何を言ってるんだ?」と戸惑うのかは個人的に興味がある。

 筆者としては、新自由主義批判をきちんと批判しようにも、具体的に何かまとまった文章がないと何も言えないと思っていたので、その意味でこうして本にしてまとめてくれているのは助かった。が、非常に読みにくく論旨も掴みにくかったので、もうちょっとすっきり書いてほしかった、というのが正直な感想である。

 

ウェンディ・ブラウン『新自由主義の廃墟で』人文書院

カトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』河出書房新社

河野真太郎『戦う姫、働く少女』

ミシェル・フーコー『生政治の誕生』筑摩書房

マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』

クリストフ・リュトゲ『「競争」は社会の役に立つのか』

*1:ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』 - 西東京日記 IN はてなは第二部を中心的に扱っている書評なので、気になる方はこちらを参照してほしい。

*2:気になる人は先に註で挙げた山下ゆ氏の書評を読んでほしい。また、直接扱わないとは言え、以下の批判が妥当なものなら、「新自由主義がホモポリティクスを駆逐した」という主張も無傷では済まないはずだ。

*3:更に詳しく述べておこう。著者は、デヴィッド・ハーヴェイマルクス主義からの新自由主義批判と、フーコー的な新自由主義批判の違いを強調する(p60)。筆者は常々、新自由主義批判にも「経済系」と「文学系」があると思ってきたが、その違いはちょうどマルクス主義フーコーの違いに対応するように思われる。また筆者としては、「文学系」=フーコー的な新自由主義批判の方が、検証が困難で怪しげなものになりがちだと考えている。

*4:まぁ別に他の部分を読んでもよく分からないことには変わりない。断っておくと、筆者もかつてポストモダニズムの議論に触れていた時期はあったが、この手の本を読む能力が皆無なことにすぐ気づいたし、もう二度と触れる機会はないだろうと思っている。本書も読んでて辛かったし、正確に読み解けてる気もしないが、明らかに変だ、と思ったところはツッコんでいくという方針である。

*5:ところでここでの市場とはいったい何なのだろうか。筆者の見たところ、著者がイメージしているのは価格メカニズムではなく、シュンペーター的な、動態的な市場観である。

*6:それはさすがに言い過ぎだろうと思われるかもしれないが、では選挙における候補者間の競争や、競技スポーツにおける選手間の競争はどのようにしてこの「新自由主義」の定義から外すことができるだろうか? 著者は、ホモエコノミクス的主体は企業家、あるいは投資家のようにふるまう、といった説明をつけているが、これによって概念の範囲が限定されるようには思われない。

*7:ここの記述は、フーコーの主張の要約という形をとっているが、著者はそれを否定していない、というか基本的に高く評価している。フーコーを批判している部分もあるが、それはフーコーの議論は新自由主義を考察するためには不十分である、というものであり、フーコーの議論自体を否定するものではない。

*8:新自由主義を価値的にニュートラルな語と捉えているのならまだ理解はできるが、著者は明らかに否定的な価値評価を込めている。

*9:ちなみにクリストフ・リュトゲ『「競争」は社会の役に立つのか』は、競争批判者の多くは競争そのもの、あるいは適切に機能している競争を否定しているわけではない、と主張している。

*10:もちろんくっきり分かれるわけではないというか、大抵の新自由主義批判者は両方の要素を持っている。

*11:まぁ時間を無駄にしたくなければ読まない方がよいとは思う。