今回紹介するのはジョセフ・ヒースの論文、「The Contribution of Economics to Business Ethics」である。
一応ビジネス倫理の論文だが、狭義のビジネス倫理学者はほとんど出てこない。どちらかというと、経済学がいかにしてビジネス倫理を受け入れるようになっていったかを、20世紀の経済学の発展とともに辿る、みたいな内容になっている。
いつものことだが要約は大雑把である。変なところがあればコメントしてほしい。
はじめに
- ビジネス倫理と経済学は長い間対立関係にあると見なされてきた。その典型例は、ミルトン・フリードマンの議論に対するビジネス倫理学者の強い反発である。
- もちろん、ビジネス倫理にも(フリードマンやハイエクを支持する)リバタリアンの伝統があり、経済学者にもビジネス倫理に好意的な人々は存在した。しかし、経済学は少なくとも3つの重要な疑義をビジネス倫理に突きつけてきた。最初のセクションでは、この対立関係に焦点を当てる。
- しかし、経済学によるビジネス倫理への批判は、当時の経済学の限界に縛られてもいた。経済学の発展はこの対立状況を一変させ、両者の協力を促した。2つ目のセクションでは、こうした経済学の発展を概説する。
- 最後のセクションでは、現代の経済学がビジネス倫理の諸問題を考察する上で有益になるということを、事例を紹介しながら示す。
経済学によるビジネス倫理への疑義
- 経済学はビジネス倫理に対して主に3つの疑義を突き付けてきた。1つ目は「見えざる手」の議論、2つ目は競争の議論、3つ目は期待効用最大化モデルの議論である。
「見えざる手」はビジネスにおいて倫理を不要にする
- 市場において、個人は自己利益を追求することで公共利益を増進できるのだから、倫理は不要である、という議論がある。この見解では、市場は「道徳から自由な領域moral-free zone」(デヴィッド・ゴーティエ)と見なされる。
- この議論を最初に展開したのはバーナード・マンデヴィルだが、彼は「私悪すなわち公益」というキャッチフレーズを作っただけで、論拠を示したわけではなかった。
- きちんとした論拠を持ってこの議論を展開したのはアダム・スミスである。スミスは、個人が自己利益を追求すれば、あたかも「見えざる手」によって公共利益を促進することになるのだ、と主張した。
- ハイエクはスミスの議論を一般化し、「自生的秩序」と「つくられた秩序」を区別した。ハイエクによれば、自生的秩序を支える所有権と契約法が確立すれば、それがもたらす結果を道徳的に評価するというのはカテゴリー・エラーである。
競争はビジネスから倫理を締め出す
- 市場において価格メカニズムを機能させるには、各経済主体が自己利益を追求し競争しなければならない。つまり市場は、競争的・敵対的なインタラクションを要求する。であれば、ビジネスにとって倫理は不要どころか有害である。
- 競争的なインタラクションに参加する主体は、日常道徳の課す様々な義務を免除される。この点で市場は競争の要素を持つスポーツやゲームに似ている。フランク・ナイトやアルフレッド・カーはこの点を指摘している。そのためビジネス倫理は少なくとも、日常道徳の市場への単純な適用であってはならない。
期待効用最大化モデルは倫理を不可能にする
- 経済学は、人間の行為を期待効用の最大化としてモデル化してきた。期待効用最大化モデルにおいて、行為の価値はその(確率的な)帰結に還元されるため、行為それ自体に価値はないとされる。この見解は、利他的な選好が存在する可能性を排除しないが、真正のルール遵守やコミットメントが存在することを認めない。そのため、自己利益追求を制約するルール(義務論的な倫理)は不合理なものということになる。
- この批判は、上の2つの批判よりも根底的なものである。上の2つの批判はせいぜい、市場に倫理を導入する必要はない/すべきでないと述べるだけだったが、期待効用最大化モデルは、義務論的倫理それ自体を幻想と見なすからだ。
- 期待効用最大化モデルは、倫理的と見なされるような行為を、根底にある自己利益から説明しようとするという経済学者の職業病をもたらしている。ゲイリー・ベッカーの研究や『ヤバい経済学』はその典型例である。
ゲーリー・ベッカー/ギティ・N・ベッカー『ベッカー教授の経済学ではこう考える』
スティーヴン・レヴィット/スティーヴン・ダブナー『ヤバい経済学』
厚生経済学とパレート効率性
- 最後に、経済学者もまた規範的分析を行ってきたことを認識しておくのは重要だ。特に厚生経済学の伝統において行われてきた研究は、明確に規範的なものである。
- そもそも経済学は19世紀を通じて、功利主義と密接に結びついた「道徳科学」であった。だがその後、経済学は功利主義の問題含みな側面から離れることとなった。限界革命によって快楽主義から離れ、さらにパレート効率性概念の導入によって集計主義、さらに効用の個人間比較の問題を回避した。
- だがこのパレート効率性という概念はあまりに規範的に薄い概念であるため、多くの経済学者は、それが規範的な概念ではなく「科学的」で「客観的」な概念だと勘違いしてしまった。
- こうして、経済学は規範的問題に関心を持たなくていいとの認識が広まり、ビジネス倫理との溝は広まっていった。
合理的選択論の革命
- こうした経済学とビジネス倫理の(対立)関係を変化させた最も重要な要因は、1980年代から1990年代にかけて生じた合理的選択論の発展と拡張である。合理的選択論は広範なインプリケーションを持ったが、以下ではそれを見ていく。
囚人のジレンマ
- 合理的選択論による分析の代表例ともいえる「囚人のジレンマ」は、個別主体の効用最大化がパレート最適な結果をもたらさないというインタラクションの構造を示すものだ。これは、ポール・サミュエルソンの公共財理論、マンサー・オルソンの集合行為論、ギャレット・ハーディンのコモンズの悲劇を包括するより一般的な図式だった。囚人のジレンマは自生的秩序への信頼を掘り崩し、人は放任されれば無秩序になるというホッブズ的な見解への関心をよみがえらせた。
- 囚人のジレンマは、パレート効率性が「合理性」とは同一視できない明確に規範的な概念だという認識を広める上でも重要だった。これにより、経済学者のパレート効率性への関心は本質的に規範的である以上、(ビジネス)倫理学者の語る平等や権利といった規範的概念も正当な議論の題材となり得ることが明確になった。
実験ゲーム理論
- 経済学者は合理的選択論を用いることで、(経済全体、市場全体ではなく)より小規模なインタラクションをモデル化できるようになった。これは実験経済学というディシプリンを生み出し、経済学者たちは被験者たちが理論の予測に合致した行為をとるか実験するようになった。つまり、「ホモエコノミクスは非現実的だ」という不満がより厳密に、検証可能な仕方で定式化できるようになったのだ。
- 結果、被験者たちは期待効用最大化モデルから逸脱した行動をとることが明らかとなった。例えば人々はワンショットの公共財ゲームで協力する強い傾向を持っている。あるいは最後通牒ゲームでは公正さを考慮したプレイをする。これらを期待効用最大化として解釈しようとする試みは繰り返し検証にかけられ、反証されていった。こうした実験結果は、人々が帰結に還元されない義務論的な倫理に関心を持つことを示しており、「道徳なんてものは理想的な願望に過ぎない」という主張の誤りを暴露した。
- 例えば、いわゆる「効率性賃金(efficiency wage)」に関して、それを道徳的インセンティブから説明する議論(ジョージ・アカロフ)と経済的インセンティブから説明する議論(カール・シャピロ、ジョセフ・スティグリッツ)がある。両者は相互に排他的な説明というわけではないが、経済学者は後者を強く好んできた。それは、人々は道徳を気にかけないとの想定が根強いためだと思われる。実験ゲームはこうした想定の誤りを明らかにすることができた点で重要だった。
組織の経済学
- 合理的選択論は、従来ブラックボックスとして扱われていた企業の内部構造の分析を可能にした。企業の経済学理論に関しては、1930年代に既にロナルド・コースが取引費用の概念を提示しており、1970年代にオリバー・ウィリアムソンがそれを精緻化させていた。だが取引費用理論はミクロ的基礎づけを欠く機能主義的な議論と見なされ、あまり人気がなかった。
- この事態を一変させたのがエージェンシー理論だった。エージェンシー理論は企業の組織ヒエラルキーを、プリンシパル-エージェント関係の連鎖としてフォーマルに提示し、取引費用理論に説得的な基礎を与えた。
ロナルド・コース『企業・市場・法』
ポール・ミルグロム&ジョン・ロバーツ『組織の経済学』
- こうしてブラックボックスが開かれると、期待効用最大化モデル(を前提とするエージェンシー理論)では説明しがたい要素が企業内に存在することが明らかとなった。アルメン・アルキアン&ハロルド・デムゼッツは、企業に市場とは異なる特有の構造(ヒエラルキー)など存在しないと述べたが、そうした主張は維持しがたくなっていった。
- 組織ヒエラルキーを作り出すためには、外的なインセンティブだけではなく、内的で義務論的な倫理的動機(忠誠とか「価値」とか「職業倫理」といった言葉で表現されることが多い)が不可欠なことが示されていった。実験ゲーム理論もまた、利得を変化させないコミュニケーションが実際には個人の行為に影響することを示した。こうした発見はビジネス倫理学への追い風となった。
厚生経済学の基本定理
- 最後に、20世紀を通じて「見えざる手」の理解が大きく変化したことも重要だ。これは、ケネス・アロー&ジェラール・ドブリューによる厚生経済学の第一基本定理の証明という偉大な達成によってもたらされた。
- 経済学者の中には、これをスミスの「見えざる手」のストレートな証明と見なして、政府の市場介入に反対する自由市場擁護論に利用した者もいた。
- 一方で、この定理の証明には非常に理想化された前提が必要である以上、現実世界の市場は完全には効率的となり得ず、非市場的手段を通じたパレート改善の余地は常に存在する、と考える人々もいた。後述するように、後者の見解はビジネス倫理にとって重要な含意を持つ。
- またリチャード・リプシー&ケルヴィン・ランカスターの「次善(セカンドベスト)の一般理論」は、完全競争の条件が1つでも満たされないなら、それ以外の条件を可能な限り満たすことで可能な限り効率的な結果がもたらされるとは保証されない、ということを示した。これは、市場に不完全性が存在する場合、政府介入によって市場をより「不完全」にすることで効率が改善し得ることを示し、政府規制を支持する強い論拠となった。
建設的な協力関係へ
- こうした展開は、経済学者の側に謙虚さを促した。現実の経済事象も、経済学者にさらなる謙虚さを促した(スタグフレーション、旧共産圏の資本主義移行の失敗、途上国の経済開発の停滞、2008年の金融危機など)。
- こうして今では、経済学者とビジネス倫理学者の間で実り豊かな協力の機会が増えている。本セクションでは、いまだ揺籃期にあるこうした一連の研究を見ていく。
市場の失敗アプローチ
- 既に述べたように、厚生経済学の第一基本定理は非常に理想的な前提を入れており、これは「見えざる手」による自由市場擁護論に重要な制約を課す。このことは他ならぬケネス・アロー自身が指摘したことだった。
- アローは1973年の論文「社会的責任と経済的効率性(Social Responsibility and Economic Efficiency)」で、パレート効率的な結果を実現するために満たされなければならない一連の条件が、「見えざる手」の適用範囲の限界を示している、と考察している。アローは特に、外部性と情報の非対称性が存在する状況下では、効率性の観点から利潤最大化を擁護することはできず、企業に(法的にであれ倫理的にであれ)社会的責任という形で義務を課すのが望ましい、と述べている。*2
- 同じアイデアを、私自身は「市場の失敗アプローチ(Market Failures Approach)」として展開してきた*3。これは簡単に言えば、見えざる手が適切に機能する場合には企業の利潤最大化に制約をかける必要はないが、市場の失敗が存在する場合には、利用可能な利潤最大化戦略に自己制約をかける道徳的責務を企業は負う、というアイデアである。
- 市場の失敗が存在し、利潤最大化がパレート効率性を実現しない場合に、利潤最大化に制約をかけるメカニズムは複数存在する。この点で、ビジネス倫理(企業による自己制約)と政府による規制は代替的なものと言える。ビジネス倫理は、現実的な理由で規制の実行が困難な「隙間」の領域に適用されるものと言える。
- 以上の議論は、「市場」だけでなく「組織」にも適用可能だ。組織ヒエラルキーにはエージェンシー問題を解決するための様々な仕掛けがあるが、倫理もその1つと見なせる(エージェンシー問題の深刻さを考えれば、そうした倫理なしに組織は成立し得ない)。アレン・ブキャナンやスティーン・トムソンはこのような議論を展開してきた。
企業の利潤志向
- 企業の経済理論の発展は、「法と経済学」のムーブメントを通じて企業法の議論にも大きな影響を及ぼしている。
- 1991年に出版されたフランク・イースターブルック&ダニエル・フィッシェル『企業法の経済的構造(The Economic Structure of Corporate Law)』は、企業の法的構造に関する議論を一変させた。イースターブルック&フィッシェルは、企業法が経営者に対して利潤最大化を義務付けているという議論に対する反論を行った。2人によれば、企業の目的はなんであれ当事者が契約で決めることだ。これは議論の余地ある主張だが、重要なのはこれが企業の利潤志向に関する議論を活性化させたことである。
Frank Easterbrook & Daniel Fischel "The Economic Structure of Corporate Law"
- 結果、企業の利潤志向(あるいは「株主優先主義」)に関する近年の議論は、もはや「株主の所有権」に訴える単純な議論ではなくなっている。例えばマイケル・ジェンセンは、経営者の意思決定を導く「目的関数」を設定する必要がある、との理由から企業の利潤志向を擁護している。またジョン・ボートライトは、(株主の所有権ではなく)一般的な社会厚生の観点から企業の利潤志向を擁護する議論を、株主優先主義の「公共政策」的擁護論と名付けている。
- これに対してステークホルダー理論家も、ステークホルダー理論は単なる倫理理論ではなく、企業の構造の根底にある原理を明示化する議論も提供できる、というより洗練された見解を示すようになってきた。例えばマーガレット・ブレア&リン・スタウトは、企業の役割は(投資家=株主に限られない)あらゆるステークホルダーの資産特殊的な投資の格納庫となることだ、と論じている。これと上記のような議論との違いは、どのエビデンスに重きを置くかでしかない。
おわりに
- 本稿はビジネス倫理の議論のサーヴェイではなく、ビジネス倫理と経済学が長年の敵対関係を脱して実り豊かな関係を築いている現在の状況のスケッチだ。
- 経済学が教えてくれる重要な教訓の1つは、行為が複雑で予期しがたい帰結を生むということだ。そして行為を道徳的に評価するには、行為の置かれている文脈を理解する必要がある。だからこそ、ビジネス倫理学者は経済学の議論を無視することができない。