ジョセフ・ヒース『資本主義にとって倫理とは何か(Ethics for Capitalists)』勝手に紹介文

 この度、ジョセフ・ヒースの著書"Ethics for Capitalists"の邦訳が『資本主義にとって倫理とは何か』というタイトルで出ることになったらしい。

ジョセフ・ヒース『資本主義にとって倫理とは何か』

Joseph Heath "Ethics for Capitalists: A Systematic Approach to Business Ethics, Competition, and Market Failure"

 

 しばらく前にこの本の簡単な紹介文を書いたことがある。この文章が日の目を見ることは結局なかったので、この機会にブログで供養しておきたい。諸事情で若干煽り気味な文章になっているのと、かなり乱暴に単純化している部分があるが、そこらへんは大目に見てほしい。

はじめに

 ジョセフ・ヒース(Joseph Heath)はビジネス倫理の研究者として、「市場の失敗アプローチ(market failures approach)」という、従来のビジネス倫理理論とは全く異なる画期的な議論を提示したことで世界的に有名である*1。例えば現代の最も標準的な哲学事典であるStanford Encyclopedia of Philosophyでは、ビジネス倫理における4つの代表的なアプローチの1つとして市場の失敗アプローチが取り上げられており*2、また本邦でも東京大学大学院総合文化研究科教授で政治哲学者の井上彰氏などが市場の失敗アプローチについて取り上げている*3

 本書"Ethics for Capitalists"は、ヒース自身による市場の失敗アプローチの紹介であり、さらに市場や資本主義、企業について体系的に考察した「経済の哲学」、「経済の倫理学」の入門書でもあると言える。

 

本書の概要

 以下、本書の概要を章立てに沿って紹介していく*4

倫理(第1章-第3章)

 第1章から第3章では、ビジネス倫理が取り組むべき課題と議論の出発点が提示される。ビジネス倫理には、一方で、ビジネスは残酷な競争の世界であり、倫理など気にせず好き勝手なことをしてよいという「なんでもあり(anything goes)」の見解がある(第1章 日常道徳との緊張関係)。他方で、資本主義それ自体が道徳的に許されないという「なんでもダメ(nothing goes)」の見解がある。しかし真剣なビジネス倫理は、「なんでもあり」と「なんでもダメ」の中間で思考しなければならない(第2章 倫理枠組みの探求)。

 続いてヒースは、「なんでもあり」と「なんでもダメ」の中間点を探るための出発点として、ミニマルな倫理理論である「リベラルな正義の理論」を提示する。この理論の中心的要素は、協力の利益を最大化する「(パレート)効率性」の原理と、利益を平等に分配する「平等」の原理である。正義に適った制度は、効率性と平等の双方を考慮しなければならない(第3章 正義の理論)。

市場(第4章-第8章)

 第4章から第6章では、市場という経済システムはいかにして正当化されるのか、という「市場それ自体の倫理」が扱われる。この問題に答えを出すことで初めて、市場において経済主体がどのように行為すべきか、という「市場内部での倫理」を考えるための基礎ができあがるからだ。

 市場の正当化について考える際の出発点は、ハイエクが提示したジレンマである。大規模な社会では、協力の利益の分配をコントロールすることが非常に難しくなる。そのため私たちは、協力の規模を大きくして分配のコントロールを手放すか、分配をコントロールして協力の規模が限定されるのを受け入れるか、を選ばなければならない。幸い、適切に規制された競争市場は、このジレンマの中間を示している(第4章 市場それ自体の正当性(Jus ad merctum)*5)。

 しかし、競争市場を採用するということは、(分配のコントロールに制約がかかる以上)平等面で一定の妥協を強いられるということでもある。そして、少なくとも理論的には、競争に頼らないような直接的協力システムによって効率と平等を両立できる可能性がある。しかし、人々は公共心だけでなく自己利益にも動機づけられているため、そのようなシステムは深刻な遵守問題に直面する(第5章 競争)。ヒースは、マイケル・アルバートの提唱するパレコン(参加型経済)のような洗練されたシステムでさえ、理想的条件下でもインセンティブや情報の問題によって機能不全に陥ることを示している。それゆえ、適切に規制された競争市場は、理念的にはセカンドベスト*6でありながら、現状利用できる中で最も有効な協力システムであると考える理由がある(第6章 資本主義)。

 以上の議論を踏まえた上で、では市場の中で経済主体はどのようにふるまうべきか、すなわち「市場内部での倫理」はどのようなものになるのか、という問いに答えるのが第7章(と第8章)である。このパートから議論は本格的にビジネス倫理の領域へと入っていくことになる。

 市場は、競争を利用して効率性を実現する制度である。だがこれには、「市場の失敗」が存在しないという条件がつけられている。であれば、市場の中で経済主体が従うべきルールは、この構造を反映したものになるはずだ、というのが「市場の失敗アプローチ」の基本的な主張である。ここから、企業は「市場の失敗」を利用する仕方で競争してはならない、という倫理的原則、そして、「負の外部性の産出を控えよ」、「情報の非対称性を利用するな」といったより具体的なルールが導かれる(第7章 市場における倫理(Jus in mercatu))。こうしたルールは、日常道徳(「他人を害するな」、「嘘をつくな」など)の単なる言い換えではなく、道徳理論を市場の文脈に合わせてチューニングすることで初めて導かれるものである(第8章 応用例:不正直)。

企業(第9章-第13章)

 第9章から第13章では、企業における倫理を扱っている。市場をスポーツの試合に例えるなら、企業はスポーツチームのようなものだ。試合全体(すなわち市場)は競争という敵対的構造を持っているが、チーム内(すなわち企業)では直接的な協力関係が必要になる*7。そのため、企業内の倫理は、市場における競争の倫理とは違う、協力の倫理でなければならない。経営者が、孫子の兵法を好みつつ、東洋のスピリチュアルな思想も好むのは、企業が対外的には「競争の倫理」を、内部では「協力の倫理」を持っているからだ(第9章 企業)。とはいえ、企業内の「協力の倫理」は市場の「競争の倫理」の制約下にあり続ける(第10章 市場の制約)。

 企業に関して最も批判が集中する点と言えば、利潤追求(株主価値の最大化)である。資本主義批判者やビジネス倫理学者の多くは、株主優先主義を攻撃し、株主以外のステークホルダーに対して義務を負わせたり、協同組合を増やしたりするといった改革が必要だと主張してきた。しかしヒースによれば、株主優先主義の批判者は概して、株主優先主義が所有者優先主義という一般原則の一例であること、投資家所有へと収斂しがちなのは各ステークホルダー集団の利害計算の結果であること、投資家所有にはガバナンス上の優位があること、を見落としているという*8第11章 所有)。

 こうした所有の問題とは別に、企業の内部において各メンバーが従うべき規範は、どのようなものだろうか。ここで重要なのは、典型的な企業の内部構造は官僚制であり、経営者を頂点とするプリンシパル-エージェント関係の連鎖と見なせることだ。そのため効率性の観点からすると、企業内の各主体が従う規範は、エージェンシー費用の最小化に資する規範(横領、情報の秘匿、サボりといった行為の禁止など)と言える(第12章 職業ビジネス倫理)。このプリンシパル-エージェント関係において、契約の不完備性のために不利益を被りやすい労働者を守るための仕組みは様々に存在し、その中にはあまり上手くいかないもの(労働者協同組合労働組合)もあれば重要なもの(労働法、職場規範)もある(第13章 応用例:労働関係)。

その他(第14章-第15章)

 最後に第14章 発展的なトピックでは、本書で十分に言及されなかったトピックが並べられ、第15章 結論で本書の議論が締めくくられる。

 

本書のアピールポイント

 本書のアピールポイントを以下に列挙していく。

 ビジネス倫理は、曖昧な経済理解に基づく気まぐれなお説教しか提示していないとしばしば批判される。だが本書は、そうした議論とは明確に一線を画している。ヒースは体系的なビジネス倫理理論を構築することの重要性を説いており、本書でも経済学や政治哲学の議論をふんだんに取り入れることで、堅固な事実認識と明確な規範的前提に基づいた「お説教」以上の実践的指針を打ち出している。ヒースの提示する「市場の失敗アプローチ」がビジネス倫理学において代表的な理論の1つとなっているのはそのためだ。

 次に、本書はビジネス倫理の議論としては非常に特異なものだが、標準的な経済学の議論を取り入れ、それを哲学者・倫理学の研究者や学生を念頭に置きながら説明しているため、人文学徒向けの経済学の入門書という側面も持っている。ヒースの前著である『資本主義が嫌いな人のための経済学』が、倫理的視点を強調しながら経済学を平易に解説した本だとするなら、本書は経済学を巧みに取り込みながら倫理理論を展開した本と言えるだろう。さらに、ビジネスの実践が経済学と倫理学の中でどう位置づけられるのかという疑問に応えているという点で、学生からビジネスパーソンまで、多様な層にアピールすると思われる。

 この点に関連するが、本書の議論は、哲学・倫理学と経済学を架橋する1つの優れた試みとなっている。経済学の理論的知見を参照している点はもちろん、経済学者が行ってきた倫理的議論も、そのままでは受け入れないにせよ、単に拒絶することもなく、その最良の部分を取り出そうと努めている。この点で本書は、ビジネス倫理を学ぶ学生や研究者はもちろん、経済学、政治哲学、あるいは規範的観点を重視した社会科学を学ぶ人々からの関心を呼ぶだろう。

 更に、本書はビジネス倫理という言葉で通常イメージされるような狭い領域に留まらず、資本主義や市場といった大きなテーマを扱っている。昨今、資本主義は様々な方向から批判に晒されているが、非常にクリアな規範的根拠に基づきつつ、制度の詳細を丁寧に辿りながら資本主義について論じているという点で、本書は資本主義の支持者にとっても批判者にとっても必読の文献である。

 最後に強調しておきたいのは、本書の読みやすさである。本書は(ヒースのどの著書よりも)1つ1つの章が短く、簡潔な議論が続くため、1つの章を単独で取り出してもある程度の理解は可能となっている。また章の数や、各章のトピックの密度を考慮すると、大学の授業で教科書とするのに最適だと思われる。

 

おまけ:研究者たちが寄せたコメント

 本書の売り出し方は(安田洋祐先生が推薦文を寄せていることからも)主に経済学方面を重点的に狙っているっぽいので*9、ここでは哲学業界の人たちに向けたアピールのために、本書のカバー裏に載っていた研究者たちのコメントを載せておこう。

  • ジェイソン・ブレナン(Jason Brennan)*10:ジョセフ・ヒースがやってくるまで、哲学的ビジネス倫理は深刻な状況にあった。ヒースは、ビジネス倫理をこの状況からある程度救い出した――おそらく唯一の優れたビジネス倫理の一般理論である、「市場の失敗アプローチ」を提示することによって。
  • ジョン・ボートライト(John Boatright)*11:ビジネスにおける倫理に悩まされた人、そしてもちろん、ビジネス倫理に関心を持つ全ての人にとって、本書は必読である。
  • ウェイン・ノーマン(Wayne Norman)*12:政治経済学、経営学、そして哲学の研究者たちは、この本を読んで目から鱗を落とすことになるはずだ。ヒースは、規制込みの市場システムを正当化するために用いられる経済学的議論が、同時に、企業に対して法令遵守を超えた〔倫理的〕義務を生み出すことを示してみせた。ヒースの長年のファンにとって、本書は嬉しい本である。というのも、ヒースは本書で初めて、彼の議論が市場競争に参加する企業だけでなく、企業の中で協力する経営者、従業員、その他契約労働者に対して持つ含意の多くを引き出しているからだ*13

 

ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』

ヘンリー・ハンズマン『企業所有論』

 

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*1:ここでは革新性を強調しているが、基本的な洞察はヒース以前から提示されており、突飛な議論ではないということもここでは強調しておきたい。ヒースが挙げる最重要の先駆者としては、クリストファー・マクマホン(Christopher McMahon)ケネス・アローがいる。

*2:Jeffrey Moriarty, Business Ethics (Stanford Encyclopedia of Philosophy) (substantive revision Tue Jun 8, 2021).

*3:井上彰「企業の社会的責任とロールズ正議論」(井上彰編『ロールズを読む』所収)。ただし筆者は井上論文と見解を異にしている。

*4:なお倫理・市場・企業という区分けは筆者のオリジナルで本書にはない。

*5:ちなみにこのJus ad mercatumと、あとで出てくるJus in mercatuという聞きなれない言葉は、ヒースの造語である。これは正戦論におけるJus ad bellumとJus in belloの区別とのアナロジーで導入されている。

*6:ヒースはセカンドベスト(より一般にnth best)という語を、用語法を厳密に統制して用いる場合と、かなりラフに用いる場合がある。ヒースは本書で市場をセカンドベストの編成と呼んでいるが、これはラフな用法である。ヒースの厳密に統制された用語法の下では、ファーストベストは効率と平等が完全に両立した編成、セカンドベストは優先主義を制度化した編成、サードベストは効率性を制度化した編成となり、市場はこのサードベストの編成に対応する(ここではやや単純化している)。Morality, Competitoin, and the Firm第7章を参照。

*7:これは新制度派経済学の伝統において、市場とヒエラルキーの区別として論じられてきた。

*8:ヒースはヘンリー・ハンズマン『企業所有論』に強い影響を受けており、この章でも頻繁に参照されている。そういえば『企業所有論』の邦訳も慶應大学出版会から出ている(ステマ)。

*9:ただの妄想かも。

*10:リバタリアニズムや投票・民主主義に関する研究で非常に著名な政治哲学者。翻訳書として『アゲインスト・デモクラシー』『投票の倫理学』がある。

*11:ビジネス倫理、金融倫理の研究者。株主優先主義の研究で有名。

*12:ビジネス倫理の研究者。ビジネス倫理におけるヒースの最初期の伴走者でもあり、共著論文も書いている。

*13:本書のこの側面はヒース自身も強調しているが、とはいえMorality, Competition, and the Firmの第4章において既にこの方向性が示されていたという点には注意が必要である。