『資本主義が嫌いな人のための経済学』の誤謬?

『資本主義が嫌いな人のための経済学』の誤謬(「『反逆の神話』の誤謬」補遺) - ラビットホール

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という記事についてコメントする。この記事は、『資本主義が嫌いな人のための経済学』の内容を引用しながら、何が間違っているかを指摘している。本記事では、そうした指摘の中で誤読に基づいていると思われる点や、十分な根拠がなさそうな点を取り上げていく。

 本題に入る前にいくつか注意点。

  • 本記事は、ラビットホールさんの指摘の中で誤読に基づいている点を取り上げるものだ。総合的に判断して最終的に「『資本主義が嫌いな人のための経済学』は誤りを多く含んでおり入門書として不適切」といった結論になる可能性は排除しない。が、少なくともラビットホールさんが記事で行っているような指摘を根拠にそのように結論づけることは難しいだろう、ということは示したいと思っている*1
  • ラビットホールさんの記事で指摘内容を掴みづらかった部分については、筆者が「そのように想定するのが最も妥当」だと考える解釈を与えた上で、問題点を指摘している(根拠は適宜述べる)。解釈が間違っている可能性はもちろん否定しない。
  • 長文を引用する場合、ラビットホールさんの記事からの引用はバレットで、『資本主義が嫌いな人のための経済学』からの引用は引用マークで示している。短文を引用する場合はダブルクォーテーション“ ”を用いる。引用部に強調の傍点が付されている場合は、傍点を取り除いている。引用ではなく強調したい場合などはカギカッコ「 」を用い、引用部で強調したい部分は太字にする。筆者による補足は亀甲カッコ〔 〕を用いる。

追記:ラビットホールさんからnoteの記事という形で返答があった(本当はその前に本記事のコメント欄にラビットホールさんから長文の書き込みがあったのだが、なぜか消してしまったようだ)。筆者としてはラビットホールさんに対してこの先リアクションするつもりはないので、後は読者に判断を委ねることとする。

『「資本主義が嫌いな人のための経済学」の誤謬?』の誤謬  - ラビットホール

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フェアトレード

 本書第7章「公正価格という誤謬」は、価格設定によって分配を変化させようとする取り組み全般への批判となっている*2。批判対象には、政府による家賃統制といった定番の問題だけでなく、フェアトレードも含まれている。だがフェアトレード全般がこの観点から批判されているわけではない。まず、以下の記述を見てほしい。

 まず大切なのは、フェアトレード」として括られることが多い、複数の異なる考えを区別することである。とにかく第一世界(先進工業国)の関税障壁縮小や助成金とともに、「倫理的な」サプライチェーン管理(環境基準、職場の抑圧からの自由など)を求める一派がある。ジョセフ・スティグリッツとアンドリュー・チャールトンの共著『フェアトレード——格差を生まない経済システム』がこの傾向の代表例だ。…これはこれで結構なことだ
 だがフェアトレード運動にはもう一つ、いささか怪しい流れもある。この見方によると、金持ちである先進国の消費者は、発展途上国から輸入する財に市場価格より高値を支払う道徳的義務を負っている。…この考えが広まったのは、イギリスが本拠の化粧品メーカー、ザ・ボディショップが一九九一年に始めた「援助より取引を」といういささか殊勝ぶったキャンペーンからだ。
 実際、アフリカに必要なのは援助より取引だと考えている人は多い…。しかしザ・ボディショップの意味するところは、「搾取的な」市場価格ではなく、グローバルな分配の公正のために「上積みされた」価格で取引することだ。これを慈善的価格方針と呼ぼう。…「援助より取引を」式のキャンペーンは、価格に手をつけずに所得を再分配するのではなく、価格操作を優先して所得の再分配を斥けている
(pp. 193-194)

 つまりヒースがここで批判しているのは、分配を変化させるという慈善的意図を持って価格設定を行うタイプのフェアトレードだ。これを踏まえて、ラビットホールさんの指摘を見てみよう。

 “フェアトレードは価格規制ではない”という文章の言わんとするところは正確にはよく分からないが、ここでは“価格規制”が慈善的価格設定を指していると理解しておく*3。さて、上の引用からも分かるように、ヒースは「フェアトレードを慈善的価格設定だと仮定し」ているのではなく、「慈善的価格設定を伴うタイプのフェアトレード」を議論の対象にしている。そして、「フェアトレードが慈善的価格設定でないことを道徳的に批判」しているわけでもない。慈善的価格設定を伴うタイプのフェアトレードを、まさに慈善的価格設定が伴うという理由で批判している*4

 

  • 巻末で倫理的消費を擁護しているため、この道徳的な批判はなおさら支離滅裂だ。

 ここで“倫理的消費”とラビットホールさんが呼んでいるのは、第12章で“効率的ステータス・シーキング(地位追求)”(p. 334。元々はロジャー・コングルトンの命名)の例として紹介されている、次のような取り組みだ。

二〇〇六年にロックバンドU2のボノとポール・シュライヴァーによって、鳴り物入りで起ち上げられたブランド(RED)を検討していこう。基本的な手法は、アップル、モトローラ、ナイキのような企業とライセンス契約を結んで、人気の消費財iPodや携帯電話、コンバースのスニーカーなど)の(RED)ブランド版を製造、販売させることだ。これらの企業は自発的に売り上げた(RED)商品の購入価格の一部を世界基金に寄付し、それがアフリカのエイズ対策基金として活用されている。ここでやっていることは、このブランドによるプレミアム価格に奢侈税を課してエイズ対策資金にするのと同じことだ。異なるのは、企業がこれをブランドの付加価値を高める一法として、すべて自発的にしている点である。
(p. 335)

 「慈善的価格設定を伴うタイプのフェアトレード」を批判しながら、(RED)を賞賛するのは整合性がない、というのがラビットホールさんの言いたいことだと思われる。しかし、(RED)が「ブランド」であることに注意しよう

(RED)がしているのは、地位争いの根絶とか「ブランド攻撃」の打破をめざすことではなく、競合的な消費の力がせめて有益な副作用を生じるように方向を変えることだ。それでいいじゃないか? …四〇年にもわたる痛烈な社会批判にもかかわらず、中流階級がブランド志向をやめないことは明らかだ。そのうえ、地位の競い合いに汲々とするのもやめそうにない(現代の都市社会の地位ヒエラルキーの中心は「かっこよさ」であることに注意)。ある意味、伝統的な左派の消費主義批判には、(RED)派はさじを投げている。ただし、いい挽回策がある。「わかった、わかった」と彼らは消費者に言う。「じゃあ、最新のマストアイテムの電話機やスニーカーにどうしても無駄遣いしたいというんだね。だったら、せめてその消費する金をアフリカへ送ろうよ」
(pp. 335-336)

 ブランド製品は、ステータス競争の構造上、そもそも高い価格が設定される。「エイズ対策基金」など、社会的に有益とされる用途に活用されると謳われていないようなブランド品が大量に存在することは明らかだ(仮に(RED)ブランドが存在しなくとも、何か別のブランドがその穴を埋めて、ステータス競争の対象となっていただろう)。(RED)は、人々がステータス競争を行うという事実を前提に、そのステータス競争によって得た利潤の一部を途上国に移転しているのである。(RED)ブランドの価格設定は、フェアトレードの慈善的価格設定と違って、ニーズ以上の(つまり、世界に必要とされている以上の、無駄に多い)量の財を供給せよ、というシグナルを供給者に送るものではない*5。これが「慈善的価格設定を伴うタイプのフェアトレード」と異なるのは明らかだろう。「慈善的価格設定を伴うタイプのフェアトレード」を批判しながら、このような効率的ステータス・シーキングの取り組みを擁護することには、なんの矛盾もないように思える

 

 最初に引用した部分からも分かるように、ヒースはスティグリッツ&チャールトンが支持する(慈善的価格設定を伴わない)タイプのフェアトレードをここで批判しているわけではない。そもそもフェアトレード信者”なる言葉は出てこない慈善的価格設定を伴うタイプのフェアトレード支持者に向けられたものだ*6、慈善的価格設定を伴わないタイプのフェアトレードを“嘲笑”っているような記述も(少なくとも)本章にはない。

 

 フェアトレードに関するヒースの議論(と誤読)を確認したところで、本題に入ろう。ラビットホールさんがこの節で最も問題視している(と思しい)のは、次の文章だ。

フェアトレードの文献には、地主や、焙煎業者、ブローカー、多国籍企業から破廉恥に搾取されるコーヒー生産者の胸のつぶれるような話があふれている。だが変えようのない事実がいくつかある。世界のニーズより一〇〇〇万袋も多くコーヒーを生産しているなら、適切な解決法はそんなに多く生産するのをやめることだ(存在しない西洋の消費者向けのコーヒー豆栽培に使われた土地と労働力は、本当に必要とされているもの、例えば食糧の生産に使うこともできたのだ。それは重要な事なので、忘れずにいたい)。ところが、苗木を植えたり実が熟すまで世話したりといった「埋没費用」ゆえに、あまりに多くのコーヒー生産者が、他人が自分より先に市場から離脱するのを望みながら粘っていた。
(p. 195)

 特に、丸カッコで括られている以下の箇所が問題であるとラビットホールさんは考えているようだ。

存在しない西洋の消費者向けのコーヒー豆栽培に使われた土地と労働力は、本当に必要とされているもの、例えば食糧の生産に使うこともできたのだ。それは重要な事なので、忘れずにいたい
(p. 195)

 ラビットホールさんによると、“この節でヒースは混乱している”らしいが、このヒースの文章自体に何か“混乱”している部分があるようには見えない。次の記述を見てみると、ラビットホールさんが問題視しているのは、この文章それ自体ではなく、この文章と、(第5章などで論じられている)比較優位論が噛み合っていない、ということらしい

  • この節でヒースは混乱している。/本書の第5章は比較優位による国際貿易の擁護だ。
  • "本当に必要とされているもの、例えば食糧の生産に使うこともできたのだ"と書きながら、エピローグであらためて比較優位を賞讃する。

 しかし、これのどこが比較優位論と噛み合わないのだろうか。ラビットホールさんはこれについて何も述べていない(ただ噛み合っていないと示唆しているだけ)ので、本当のところ何を問題視しているのかはよく分からない。しかし、発展途上国が何に比較優位を持っているにせよ、(慈善的価格設定によって)需要を大幅に超えた量の財を供給するよう促すことは望ましくない、という主張それ自体は揺らがないように思われる。ある発展途上国がコーヒー豆栽培に比較優位を持っているとして、だから“世界のニーズより一〇〇〇万袋も多くコーヒーを生産”することも許容される(あるいは望ましい)、とはならないだろう。

 長くなったので、議論をまとめよう。ヒースの議論はフェアトレード一般への批判ではなく、慈善的価格設定を伴うタイプのフェアトレードへの批判だ。そして、慈善的価格設定の批判(希少性価格形成の擁護)と、比較優位論(による国際貿易の擁護)とに整合性がない、とは思われない。ヒースのここでの議論を批判したいなら、例えば、ヒースは慈善的価格設定を伴わないタイプのフェアトレード「も」批判している、と論じるとか、慈善的価格設定への批判と比較優位論とに整合性がないと言える根拠を示すとか、そういった議論を行う必要がある。

 

公有・公営化

 ラビットホールさんがここで問題にしているのは以下の記述だ。

 第二次世界大戦終戦直後からの数十年間に、西ヨーロッパでは多くの企業が国営化されたり、国有で創業されたりした。自然独占や市場の失敗のためではなく、政府がこれらの事業をより広く公益に役立てたいと願ってのことだった。カナダでも同様に、政府がさまざまな時期に航空、鉄道、石油、もちろん多数の鉱山も所有した。さらには造船、航空宇宙、造林、石油ガス採掘、原子炉建設、農地所有、都市間バス事業、自動車保険などにも(一部にはいまだに)携わった。これらの国有企業は、国内でも国際市場でも私企業と直接競争した。国家がこうした部門にかかわった主たる理由は、私有の企業がすばり私益を追求するのに対し、公有ならば確実に公益に資することが可能だと考えられたからだ。だから国営企業の経営者は、ほどよい投下資本のリターンを生み出すのみならず、雇用の維持や地域発展の促進など、ほかの「社会的」目標をも追求するよう命じられた。もちろん、この話はカナダにとどまらず二〇世紀のほぼすべての民主主義工業国で、多くの場合にはもっと大々的に展開したのである。
(pp. 221-222)

 これについてラビットホールさんは次のように指摘している。

  • 企業の公営は"公有ならば確実に公益に資することが可能だと考えられたからだ"ではなく、自然独占と外部性のためだ…そのため、この段落から始まる節そのものが無意味だ。

 しかし上の引用部をよく読んでみよう。この引用部の文章は、企業公有・公営化の一般的な正当化根拠について述べている文章ではない。再度引用する。

第二次世界大戦終戦直後からの数十年間に、西ヨーロッパでは多くの企業が国営化されたり、国有で創業されたりした。自然独占や市場の失敗のためではなく、政府がこれらの事業をより広く公益に役立てたいと願ってのことだった。
(p. 221)

 つまりここでの文章は、「第二次大戦直後の数十年間に、西ヨーロッパ(や北米)で多くの企業が国営化されたり、国有で操業されたりした」経緯を述べているものだ。言い換えれば、企業公有・公営化の一般的な正当化根拠ではなく、特定の地域で特定の時期に企業公有・公営化を動機づけた主たる理由について述べているのだ。

 そもそもヒースがここで批判しているのは、自然独占や外部性といった市場の失敗がなく(あるいは適度なレベルに留まっており)、きちんと競争が働いている産業においても、公営・公有企業は「公益」を実現するだろうとの理由で、公営・公有化がなされてしまったことだ*7。第1章をはじめ、本書で市場の失敗と政府介入の必要性がしつこいほど論じられていることを思い出そう。

 ということで、ヒースのこの記述が間違っていると言うためには、「第二次大戦直後の数十年間に、西ヨーロッパ(や北米)で多くの企業が国営化されたり、国有で操業されたりした」経緯に関する事実認識が誤っている、と言う必要がある。つまり、第二次大戦直後の西ヨーロッパ(や北米)において企業公有・公営化を実際に動機づけた主たる理由が、「公有・公営企業は公益に資すると考えられていたこと」ではなく、「自然独占や外部性などの市場の失敗」だった、と示す必要がある*8*9公有・公営化が一般にどのような正当化根拠を持っているか、という議論を持ち出すだけでは、ヒースのこの記述の誤りを指摘したことにはならない(というか、単純に別の話なので「だから何?」としか言えない)。

 

時間割引

  • 第11章「富の共有」は行動経済学〔に〕よる再分配の批判だ。

 一応読者に向けた確認として言っておくと、第11章で批判されているのは再分配全般ではなく、現金(より一般に、流動資産)を一度に大量に与えるタイプの再分配政策だ。
 本章の中核的な主張は、貧困を生み富の格差を生じさせる大きな要因の1つが双曲割引である、というものだ*10。この観点から、「人民資本主義」あるいは「資産再分配」計画(p. 289)や、ブルース・アッカーマン&アン・アルストットステークホルダー社会』(pp. 306-309)といった、純粋に平等主義的な考慮(機会の平等や結果の平等)に動機づけられた再分配プランが取り上げられる。これらの再分配プランの実行手段(現金を一度に大量に与えるやり方)は、双曲割引を十分に考慮していないため、平等主義的目的を果たせる見込みが薄い、というのが本章の基本的な論点である。

  • 一般的に再分配はパレート効率性を改善する。/行動経済学でパレート効率性が問題になるのは、ある効用関数について、ある財を消費する時期が変わることで、総効用が変わる場合だ。/ヒースが言う、同一時期での財の移転は、行動経済学にまったく関係がない。

 上で見たように、本章のまずもっての論点は効率性というより平等だ。当たり前だが、再分配を支持する論拠は限界効用逓減だけではない。「資産再分配」計画も「ステークホルダー社会」も(本書の紹介では)基本的に機会平等の考慮に動機づけられているようだ。

 

  • 経済学で効用関数は所与だ。/効用関数に道徳的な視点から非難を加えるなら、すでに経済学ではない。/そのため…本書が目的とする科学の価値中立性について、誤りを犯す。
  • なお、パターナリズムという結論そのものには完全に賛同する。/経済学では誤りだということだ。

 文章の流れ的にいまいちヒースのどの議論を指しているのか分かりにくいが、このセクションが第11章を取り上げていることからして、双曲割引の話をしていると考えるのがもっともだと思われる*11

 とすると、ラビットホールさんがここで言っているのは、次のようなことではないかと思う。経済学では、個人の選好を所与として扱うので、個人がどんな時間選好を持っているにせよ(その時間選好によって貧困に陥る行為パターンにはまっているにせよ)、それに口出しすることはない。ところがヒースは、双曲割引的な時間選好がもたらす自滅的行為を防ぐために、政策的対処をとるべきだという。これは明らかにパターナリスティックであり、政策的議論としてはもっともらしいかもしれないが、経済学の範疇を超えている。

 このような議論について、二点ほど指摘したいことがある。

 第一に、本書はそもそも経済学の実証的・理論的な議論を紹介する、というよりも、右派・左派の規範的議論が前提としている、経済に関する誤った議論を指摘して、その自己論駁性を暴いたり、よりもっともらしい規範的主張を提示したりするものだ。そのような規範的議論を扱うにあたって、経済学で広く用いられている規範的基準の重要性を認めてはいるが、それに留まっているわけではない*12

 つまり本書は、(それ自体は経済学において広く認められているとは限らないような)規範的前提と、経済学の実証的・理論的な知見を突き合わせて議論を行うという形をとっている。経済学が選好を所与と見なすとして、双曲割引的な時間選好に関する知見と、経済学外的な規範的前提を組み合わせる議論を本書が行っていることに、特に問題があるようには思われない

 第二に、第11章で取り上げられている双曲割引的な時間選好は、個人の観点から見て自滅的と言えるような行為パターンをもたらす特殊な選好である(だからこそ、紙幅を割いて論じられている)。だから、双曲割引的な時間選好への政策的対処が必要だとする議論はパターナリズムであり、“効用関数に道徳的な視点から非難を加え”ている、と見なせるかはそこまで自明ではない。

 もちろんこれは、“道徳的”という語が何を意味しているのかによる。主体の選好が、主体の主観的観点から常に望ましいと判断される、という仮定を置くなら、それに対するいかなる政策的対処もパターナリズムであり、選好への“道徳的な視点から”の非難を伴っていると言えるかもしれない。しかし第11章でヒースが論じているのは、双曲割引的な時間選好は自滅的行為をもたらすので、個人の主観的観点から見て望ましくないと判断され得る、ということだ。だから、双曲割引的な時間選好に対する政策的対処は、単なるパターナリズムではないし、(個人にとって外的な規範的基準から一方的に選好を評価するという意味で)道徳的な非難を伴うわけでもない、とヒースは主張している。それゆえ、次のような主張がなされているのである。

…双曲割引の正しい理解は、この昔ながらの自由と温情主義の対立をかなり解消するのに役に立つ。国民に自己の最善の利益になるように振る舞うことを強いる社会政策は、「過保護国家」の高圧的な介入というより、むしろ個人が心から喜んで支持するであろう自己拘束的な戦略だと理解できる。
…〔こうした政策に反対する人は〕これを温情主義的だと批判する。それでも双曲割引タイプとおぼしき人ならば、これを国家の支援で実行される理にかなった自己拘束的戦略と見なすかもしれない。
(pp. 310-311)

 もちろんこれは、明らかに異論の余地ある議論である。ここで示したかったのは単に、ヒースが選好の取り扱いに関してそれなりに慎重であり、選好の主観性を十分に考慮して議論を行っている、ということだ*13*14。非常に回りくどい言い方になるが、選好を部外者的観点から好き勝手評価してパターナリスティックな政策を導く粗野な議論とは一線を画すものとして、ヒースが自身の議論を提示していることを見落とすべきでない(その妥当性や説得力はもちろん議論・批判の対象となるだろうが、それはまた別の話だ)*15

 

ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』

 

 本記事を書くにあたって、公開前にアヒリズムさん、青野浩さんにコメントしていただきました。ありがとうございます。もちろん記事の内容の責任は筆者にあります。

*1:本書を読んで経済学を知った気になるな、という意見は全くおっしゃる通りだと思うが、これは本書に限らず入門書一般に当てはまる話なので、ここでは扱わない。

*2:より正確に言えば、第7章は希少性価格形成の倫理的擁護だ。分配を変化させるための意図的な価格設定(慈善的価格方針)が批判されるのは、それが希少性価格形成からの逸脱であり、また希少性価格形成に手を加えずとも分配を変化させることが可能であるからだ。

*3:この解釈を採用した理由を示しておこう。①「価格規制は政府による価格へのコントロールのみを指す(民間主体の取り組みは指さない)」という批判ならば(まさかそんな批判ではないと思うが)、ヒースは明らかにそんな議論をしていないのだから、この文章は意味不明になる。②価格規制というのが「意図的に希少性価格形成から外れた価格設定をすること全般」を指すなら、フェアトレードの中には「慈善的価格設定を伴うタイプ」と「慈善的価格設定を伴わないタイプ」があるのだから、フェアトレードの「全て」が価格規制ではない、という主張は正しい。しかし本文にもあるように、それはヒースも当然認識していることだ(ヒースが批判しているのはあくまで「慈善的価格設定を伴うタイプのフェアトレード」である)。残る可能性としては、③「価格規制という語で筆者の知らない何かを指している」か、④「慈善的価格設定を伴うフェアトレードだとヒースが見なしているものは、実際には慈善的価格設定を伴っていない」という主張をしているか、のどちらかだろう。だがどちらの解釈であれ、筆者にはよく理解することができない。最終的に、(後で述べるが)ヒースがスティグリッツ&チャールトンの支持するタイプのフェアトレードを批判している、とラビットホールさんは勘違いしているようなので、その点を考えると②で解釈するのが最も適切だろう、と判断した(なおここでの文脈では、「意図的に希少性価格形成から外れた価格設定をすること」は「慈善的価格設定」だと考えてよいので、本文ではそのように表記した)。

*4:そもそも“フェアトレードが価格規制でないことを道徳的に批判する”というのは何を指しているのだろうか。その主張のすぐ下でラビットホールさんは以下のヒースの文章を引用している。

しかし、さすがにオックスファムは(多くのフェアトレードコーヒー推進者と異なり)勧めている方針の結果をざっくばらんに認めた。フェアトレードの価格づけは根底にある問題、つまりコーヒー供給過剰への取り組みとは関係ないことを認識していた。だからオックスファムの慈善的価格方針の裏には、現在あるコーヒー豆の在庫を抹消する覚悟があったのだ。「政府および企業」に、コーヒー五〇〇万袋(推定一億ドル分)を買いあげ、処分するよう勧告した。
(p. 196)

これはまさに「慈善的価格設定を伴うタイプのフェアトレード」が慈善的価格設定を伴っているために生じた問題への、倫理的批判だろう。

*5:地位財を巡る競争そのものが無駄である、という話はあるが、それは希少性価格形成とは別の話だ。

*6:当初は見落としていたが、p. 195には確かに“フェアトレード信者”との言葉が出てくる。ただしもちろん本文にもある通り、これはスティグリッツ&チャールトンらに向けられた言葉ではない。

原因療法ならぬ対症療法に走る見本のごとくに、オックスファムその他のフェアトレード信者は、西洋の消費者がこの供給過剰に対し、コーヒーにもっと高値を払うべきだと示唆した。悲惨なほどばかげた提案だ。これでは(問題を解決しないという意味で)間違っているだけでなく、(解決すべき問題をまさしく悪化させるという意味で)とるべき行動の正反対ですらある

(p. 195)

*7:これは、“これらの国有企業は、国内でも国際市場でも私企業と直接競争した”という記述からも分かるだろう。

*8:ラビットホールさんがこの事実認識のレベルでヒースに異議を唱えているようには筆者には読めなかったし、もしこのレベルで異議を唱えているなら、その根拠を明示する必要がある。もう一つ言っておくと、事実認識のレベルでの異議は正当なものであり、真剣に検討すべき問題だろう。だがこの問題はもはや、入門書として適切か、といったレベルを超えた話に踏み込んでいる。

*9:「主たる理由」とヒースが書いていることも重要だ。ヒースは「(この時期の西ヨーロッパや北米において)市場の失敗を理由にした公有・公営化がなかった」と主張しているわけではない。公有・公営化の「主たる理由」が、市場の失敗ではなく、「公益の実現」であった(そのために、市場の失敗が存在しないような産業においても、公有・公営化がなされてしまった)というのがヒースの主張だ。

*10:この主張自体はもちろんそれほど自明ではないので、議論の対象となってしかるべきだろう。だがラビットホールさんはそれを問題にしているわけではないので、本稿でも扱わない。気になる人は本書を読んでほしい。

*11:“経済学で効用関数は所与だ”という文章の直前には、次のような記述がある。

  • また、ヒースは厚生経済学も理解していない。厚生経済学の第1、第2基本定理の証明は単純だ。…"第二基本定理の証明はやや複雑だが"と言うヒースは、そもそも証明を理解していなく、"複雑"と言って不理解を粉飾している。

だがヒースの厚生経済学の第一・第二基本定理に関する記述で、“効用関数に道徳的な視点から非難を加え”ていると言えそうな箇所は(少なくとも筆者の認識では)ない。よってこの厚生経済学の第一・第二基本定理に関するラビットホールさんの指摘は、ヒースが厚生経済学を理解していないことの傍証としてなされているものであって(この点についてはここでは立ち入らない)、その後に続く効用関数が云々という指摘と直接は関係ないものと筆者は理解した。

*12:これは本書の説明としてはやや単純化している。本書は「右派と左派の経済学に関する謬見を暴く」ものとして紹介されがちだが、それと並んで重要なのが、標準的な経済学的見解への批判という要素だ。特に第2章「インセンティブは重要だ」と第3章「摩擦のない平面の誤謬」はその側面が強い(ただし、批判の論拠も、大抵の場合は経済学の知見である)。

*13:ラビットホールさんは、次のような記述を取り上げて、ヒースは“前提となる経済学の初歩を理解していない”、“限界消費性向、時間割引関数を理解していない”、と言っている。

例えば、人は税金について語るとき、遺産は別として、自分の全収入を支出することを忘れがちである。「消費税」は貯蓄を控除した所得税にほかならない。この控除でさえ、実は控除ではなく猶予でしかない。なぜなら、またもや遺産を除けば、人はいずれ貯金を使うのだから。なのに、カナダの保守党政府が最近GST(カナダ版「付加価値」消費税)を引き下げたところ、かなりの高級紙に寄稿している解説者でさえ、この策は、自動車のような大きな買い物を考えている消費者だけに有効だろう、ほかの消費者にとっては所得税の引き下げのほうがよかった、とコメントした。

(p. 19)

 ここでヒースがしているのは、生涯ベースで見たときの消費税と所得税の同等性の話ではないだろうか。

 個人が、何の相続も受けずにまた何ら遺産を残さないとしよう。そのとき賃金に対する一律税と消費に対する一律税とは同等になる。言い換えれば、消費税は利子や他の資本にとっての収益が免税になる所得税と同等になる…

 その同等性は、(相続も遺産もない)個人の生涯を通しての予算制約を見ることによって、最も明らかになる。…

 二つの租税が同等であるといことは、一つの税を他の税(またこれら以外の税をこれらのどちらかの税)に変更したときに、まったく効果がないということではない。同等であるということはたんに、二つの租税が長期的にはまったく同じ効果を持っているということである。しかし短期的には――その税が採用されたときの移行期間をも含めて――効果は著しく異なるかもしれない。…

ジョセフ・スティグリッツ『公共経済学(第3版)・下』(pp. 634-638)

 この見解それ自体に異論の余地がないとは言わないが、それはヒースの経済学への無理解を示すものではなく、経済学の議論それ自体の問題だろう。そもそもヒースが時間割引について理解しているかどうかを云々したいなら、それについて長々と論じている第11章の記述を取り上げるべきだ。

*14:『ルールに従う』第8章も双曲割引を扱っているが、そこでのヒースの書きぶりはさらに慎重だ。

 抽象的にみるならば、この種の双曲割引関数の何が本質的におかしいかを理解することは難しい。理性的な人が遅延に対して忌避的でありうるという理由から、実践的合理性のモデルに時間選好を取り入れたいと思ったとしても、なぜ合理性が、将来のどの時点でも、すべての遅延に対して同じ仕方で感じることを要請するのかを理解するのは難しいのである。それは少なくとも、哲学文献で現在入手可能な理論より、ずっと完全な選好合理性の理論を必要とすることになるだろう。
 しかしながら双曲割引関数それ自体から目を転じ、このような割引関数に基づいて行為することの結果のいくつかを見るならば、この見方は変わってしまう。結局のところ、指数関数的割引関数のあまり評価されてこなかった特徴の1つは…選好の動学的安定性を保証することである。…
 これに対して、双曲割引は選好の動学的不安定性を生み出してしまう。…
(『ルールに従う』p. 406)

 これまでの議論は、実践的合理性の議論から排除されないという意味で、割り引くことそれ自体は不合理ではないという私の主張に基づくものであった。…このようなメタ選好を持つ主体は、長期の利益を逃して短期の満足を選択したり、数学的にはより良い賭けがあるのに「確実なこと(sure thing)」の選択を選好したり…するかもしれないのである。主体がこうした選好を持つならば、それに基づいて行為しない理由は原理的にはないように思われる。
 他方、こうしたメタ選好が原理的に排除されえないという事実は、主体が自分の特定の選好を反省したり、決して変更することができない、あるいはすべきではないといったことを意味しない。…主体が通常採用する割引率があらゆる種類の悪さをすると信じ、したがって主体がそれを変更しようとするもっともな理由を有していると考えるに足る十分な理由が存在する。とりわけ主体には、双曲的割引率ではなく指数的割引率(あるいはもしかしたらゼロの時間選好さえ)を採用する正当な理由があるのである。
(『ルールに従う』p. 418)

*15:双曲割引的な時間選好を巡っては経済学でも色々議論が割れているらしい。清水和巳『経済学と合理性』によると、合理的な時間選好を特徴づける公理として「定常性」(stationarity)を含めるかどうか(「定常性」を含める場合、双曲割引的な時間選好は定常性を満たしていないので、合理的な選好ではないということになる)については色々議論があるようだ(pp. 32-34, p. 91)。