「新自由主義批判」の何が問題とされてきたのか

 弊ブログではこれまで、「新自由主義(ネオリベラリズム)批判」を批判する記事をいくつか挙げてきた。そんなことをしていると、新自由主義批判」は雑だと批判するお前の議論の方が雑じゃねーか、という批判ももらったりする。確かに「新自由主義批判」批判にも(筆者の議論含め)雑なものはあると思う。そして互いに「お前の議論は雑だ」と言い合う状況はよろしいものとは言えないだろう。

 ということで、この記事では筆者から見た「新自由主義批判」批判の主な論点を挙げてみることにする。ここでの目標は、「新自由主義批判」を批判することではなく、より建設的な「新自由主義批判」批判が行われるようにするための論点整理である。そのため、論点全てについて「新自由主義批判」批判側の主張を擁護するような議論は行わないし、具体的な「新自由主義批判」の事例を逐一参照することもしない(ただし必要に応じて例示はしている)。なので『本当にお前の言うような「新自由主義批判」があるのか、藁人形論法じゃないのか』との批判が飛んでくるかもしれないが、まぁそれは論点整理記事なので許してほしい

 なお、本エントリを書くにあたり、とりあえず参考にしたのは以下の記事だ(拙記事も混じってるが)*1。「新自由主義批判」批判に関心のある読者には一読をおすすめする。

ジョセフ・ヒース「『批判的』研究の問題」(2018年1月26日) - 経済学101

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新自由主義」批判がグダグダになりがちな理由(ジョセフ・ヒース論文「批判理論が陰謀論になるとき」メモ) - 清く正しく小賢しく

kozakashiku.hatenablog.com

市場原理ってなんですか?(ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』読書メモ) - 清く正しく小賢しく

kozakashiku.hatenablog.com

関東社会学会第69回大会テーマ部会B「ワークショップ時代の統治と社会記述――「新自由主義」の社会学的再構成」(2021年6月12日)へのコメント – shinichiroinaba’s blog

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流れた研究会用のメモ - shinichiroinaba's blog

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新自由主義」や「自己責任論」は実在するか?(読書メモ:『<学問>の取扱説明書』) - 道徳的動物日記

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ノア・スミス「"新自由主義への転換"は本当に生じたのだろうか?」(2022年9月24日) - 経済学101

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ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』 - 西東京日記 IN はてな

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(4/26追記)当エントリの内容について整理・補足していただきました。ありがとうございます。

『「新自由主義批判」批判』に寄せて - エコノミック・ノート

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定義について

定義が曖昧

 「新自由主義批判」批判の多くは、「新自由主義批判者」たちの言う「新自由主義」の定義が曖昧で、結局のところ何を指しているのかよく分からないという点を指摘するものだ。

 ただしこうした批判については新自由主義批判者」も答えを用意している。最も参照されているのはデヴィッド・ハーヴェイによる以下の定義だ。

新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である。

デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』p10

(なおこの定義からは読み取りにくいが、ハーヴェイの論じる「新自由主義」が、普通「新自由主義」という言葉で連想されるような素朴な「小さな政府」論から乖離していることに注意すべきである。ハーヴェイは「新自由主義」において国家介入が強まる場合があることを強調している。)*2

 とはいえ、「新自由主義」という言葉は別にハーヴェイの専売特許ではない。例えばフーコーの系譜を引き継ぐ「新自由主義批判者」たちの議論は、ハーヴェイとは大きく異なっている。フーコー系の代表的な「新自由主義批判者」、ウェンディ・ブラウンによる「新自由主義」の定義を見てみよう。

わたしはミシェル・フーコーらとともに、新自由主義を規範的理性の命令であると考える。その命令が優勢になるとき、それは経済的価値、実践、方法に特有の定式を人間の生のすべての次元に拡大する、統治合理性のかたちをとる。

ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』p26

 何を言ってるのかよく分からないだろうが、ともかくハーヴェイとはかなり異なる議論をしようとしているらしことは理解できると思う。

 ここで提示した2つの定義からしかなり曖昧なものだ、という議論もあり得るが、ここではむしろ、相互に関連性の見えにくい(そして時に矛盾するような)様々な定義が乱立している点に注目したい。ということで、「定義が曖昧」という点はとりあえず脇に置いておいて*3、「定義が混乱している」という論点に移ることにしよう。

定義が混乱している

 「定義が混乱している」と言っても、どんな風に混乱しているのだろうか。上では「新自由主義批判」の代表的な論客であるデヴィッド・ハーヴェイとウェンディ・ブラウンの定義からして既にかなり異なったものであるらしいことを確認したが、ここではより一般的な/ルーズな用法も視野に入れながら、代表的な論点を見ていきたい。

信念なのか、状況なのか

 「新自由主義neoliberalism」はismであるわけだが、ismには「信念」(主義主張)という意味もあれば「状況」という意味もある。そのため新自由主義」は特定の「信念」を指すのか、なんらかの「状況」を指すのか、というのが第一の論点となる。

 更に、信念に限定するとしても、具体的な政策思想・潮流を指すのか、漠然とした人々の心性・社会認識を指すのかで議論が異なってくる。例えば民営化や減税への支持は政策思想として想定されていることが多く、自己責任論は人々の心性・社会認識として想定されていることが多いと思われる*4。更に、「新自由主義」を人々の心性として考える際に、現代社会で多くの人に共有された心性と考える論者と、特定のタイプの人間が持つ心性と考える論者がいる(なお、ここでは「信念」や「政策思想」という言葉をかなり広い意味で用いている)。

 また状況と考える場合でも、ある政策がとられていることを指すのか、政策に限られないより広範な社会状況・制度を指すのか、で議論が異なってくる。例えば社会保障の削減は前者、メリトクラシーやグローバリゼーション、格差拡大は後者に対応すると言えるだろう。

  信念 状況
政策 政策思想 具体的政策
その他 心性・社会認識 社会状況

 こうして「新自由主義」と名指される対象を便宜的に4つに整理したが、この4つの各要素に何らかの関係があると想定して、そうした関係まで含めて「新自由主義」と呼ぶ議論も多い。新自由主義」的信念が「新自由主義」的状況をもたらしているとか、「新自由主義」的状況によって人々が「新自由主義」的信念を持つようになったとか、そういうことの全体を「新自由主義」と名指す議論である。『世界中の政策担当者が「新自由主義」という政策思想にかぶれて、それに沿った形で政策を実行していった結果、「新自由主義」的な格差拡大・弱肉強食的な社会がもたらされ、人々が「新自由主義」的な心性を内面化するようになった』といった議論はその最も素朴な形態と言えるだろう。

どんな信念/状況を指すのか

 次に、より具体的に、「新自由主義」はどのような信念/状況を指すのか、という論点が出てくる。これは論者ごとに最も議論の分かれる論点であり、相互に明らかな対立が生じることも少なくない。

 これまで挙げた(またこれから挙げる)ものも含めて、「新自由主義」的とされる代表的な信念/状況を順不同で列挙してみよう。

 と、このようにリストはどこまでも続いていく。「新自由主義批判」はこうした要素の中から任意のものを選んで「新自由主義」と名指し、なぜそれらの要素が関連しあうのかを説明した上で、批判を加えるものだと言えるだろう。

 だが上でも述べたように、こうした要素の中には、同じ「新自由主義」という言葉で括ってしまうと、少なくとも表面上は矛盾が生じる組み合わせもある。例えば論者の中には、市場競争こそが「新自由主義」的だとする者もいれば、企業が独占によって影響力を強めることこそ「新自由主義」的だとする者もいる。メリトクラシーが「新自由主義」的だとする者もいれば、縁故主義こそが「新自由主義」的だとする者もいる。

 あるいは同じ要素について、それを「新自由主義」的と見なす論者と見なさない論者に分かれるということもある。例えば、ミーンズテスト(資力調査)つきの公的給付は再分配だから「新自由主義」的でないという者もいれば、それは「管理社会」的だから「新自由主義」的だという者もいる。選択と集中は(市場ではなく)ヒエラルキーを通じた資源配分だから「新自由主義」的でないという者もいれば、競争を激化させるから「新自由主義」的だという者もいる。

 さて、この論点と密接に関係する次の論点に移ろう。

(狭い意味での)経済的領域に限定されるのか、より広範な領域を含むのか

 上でデヴィッド・ハーヴェイとウェンディ・ブラウンの議論を並べたが、ハーヴェイは基本的に、国家の経済政策や企業の行動、労働者の待遇といった(狭い意味での)経済的領域に議論を絞っている印象を受けるのに対して、ウェンディ・ブラウンはある意味、社会全域(「人間の生のすべての次元」?)に話を広げているように見える*5

 両者の対比はより一般的に、「新自由主義」が(狭い意味での)経済的領域に限定されるのか、より広範な領域を含むのか、という形で述べ直せる。この論点は「新自由主義批判」に関する議論がすれ違いやすいポイントの1つだ。後者の立場は例えば「経済学的な言葉遣い」の日常への浸透を問題視するが、前者の立場からすればそれは(審美的観点からは望ましくないにしても)真に重要な問題とは見なされないかもしれない。

「市場原理」とは結局なんなのか

 ところで、こうした乱立する多様な「新自由主義」の定義のかなりの部分が、「市場原理」やそれに類する言葉に言及している。新自由主義」の多様な定義は、「市場原理」という概念によって緩い一体性を持っているとすら言えるかもしれない。

 そこで、この「市場原理」がいったい何を指すのかということも、重要な論点の1つとなる。価格メカニズムや、いわゆる「準市場」的な制度の導入に意味を限定する論者もいる一方、独占レントの獲得、欲望を人為的に「植え付ける」販売戦略(?)、組織内での管理・統制のための数値管理*6、はてはメリトクラシーにおける選抜競争、企業内での昇進競争、SNSでのステータス競争まで、「市場」っぽかったり「お金儲け」っぽかったり「競争」っぽかったりするものならなんでも含んでしまう論者もいる

 このように「市場原理」という言葉の使われ方は非常に混乱しており、議論の混乱に拍車をかけ、新自由主義」という概念のルーズな使用を促していると言えるかもしれない。

 なおこの論点に関しては次の記事も参照してほしい。

市場原理ってなんですか?(ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』読書メモ) - 清く正しく小賢しく

kozakashiku.hatenablog.com

過去の話なのか、現在も続いているのか

 定義に関する論点では最後になるが、「新自由主義」は80年代(あるいは日本なら2000年代とか)に台頭して既に終了しているものなのか、現在も「新自由主義」は継続し続けているのか、という点についても様々な立場がある。また「新自由主義」を時期ごとに区別する議論*7や、政策レベルでは終了しているが人々の心性は「新自由主義」のままだという議論、政策レベルで終了したように見えるが実際には根底にある政策思想は「新自由主義」的なものであり続けている、といった議論まで、様々なバリエーションがある。

 これは「新自由主義」をどう定義するかに依存する話なので、必ずしも相互に矛盾するとは限らないが(例えば「新自由主義」定義Aは90年代には終了したが、「新自由主義」定義Bは現在まで続いている、という形で整合させられるかもしれない)、論者によって認識がかなりバラバラな論点ではあると思う。

 

議論の中身について

恣意的なレッテル貼りになっている

 上で見たように、「新自由主義」の定義は非常に混乱しており、論者によって「新自由主義」の指すものはまちまちである。そうなると当然、論者らは自分の嫌いなものを恣意的に取り上げて「新自由主義」とレッテルを貼ってひとまとめにしているだけなのではないか、という疑いが持ち上がる*8

 特に、新自由主義」という言葉で非常に広範な現象を説明しようとしている論者は、このような批判に晒されやすい。広範囲の現象を説明しようとすればするほど、新自由主義」なる概念の内実は薄まっていき、当人が「新自由主義」という言葉で括るつもりのなかった現象にまで適用できるほどの過大な説明力を持ってしまうことになりかねない*9。また様々な現象を説明しているうちに明らかな矛盾が生じてしまい、矛盾を解消・説明するためにアドホックな仮定をどんどん追加していくというのもありがである*10*11。そしてそのようなプロセスを打ち止めにするために恣意的な選択(「あれは新自由主義でこれは新自由主義ではない」という特に根拠のない区別)を行ってしまいがちなのだ。

 なおレッテル貼りの疑いは、「新自由主義」概念で広範囲の現象を説明したい論者にだけ突きつけられるものではない。例えば「優生思想」を「新自由主義」的とする議論を行うなら、両者がどのように繋がるのかをきちんと示さなければならないが、なんとなく似ているというフワフワした繋がりしか示せていない場合がままあるように思われる*12

検証が不可能/困難

 「新自由主義」が現代社会の様々な問題を引き起こしている元凶である、とする議論は数多く存在する。しかしこうした議論の妥当性を吟味したいと思っても、そもそもどうすれば妥当性を検討できるのかもよく分からない場合がある。再びウェンディ・ブラウンの主張を見てみよう。

重要なのは、新自由主義的合理性が市場モデルを全ての領域と活動へ――貨幣が問題ではない領域であっても――散種し、人類を市場の行為者であり、つねにどこでもホモ・エコノミクスでしかありえないものとして設定するという点にある。

ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』p27

 大雑把に要約してしまえば、「新自由主義」の浸透によって、人々はあらゆる領域でホモ・エコノミクスとしてふるまうようになる(それが様々な問題をもたらしている)、ということらしい。しかしいったい、いかなるテストを行えばこの議論の妥当性を検証できるのだろうか。少なくとも筆者にはよく分からない。より一般的に言うなら、「新自由主義批判」はレトリックに頼りすぎていて、社会科学の土俵に乗るような仮説となり得るのか怪しい場合が少なくないように思われる。

社会状況の記述として適切ではない

 「新自由主義」について、存在を検証しやすいような定義を立てられたとしよう。この場合でも、新自由主義」という形で社会状況を記述することは(事実に照らして)適切か、という争点は残っている。もちろん、その適切性は「新自由主義」をどう定義するかに依存する。

 例えば「新自由主義」を「福祉国家の終焉」として定義するなら*13、「社会保障費(の対GDP比)はどうなっているのか」といったデータを見ながら、「新自由主義」という状況記述が適切かを検討するのが定石だろう。そして例えばアメリカの場合なら、下の記事にあるように、『「新自由主義」への転換が起きた時期やそれ以降で、社会保障費が減ったとは言えないのでは?』といった批判が返ってくるかもしれない。

ノア・スミス「"新自由主義への転換"は本当に生じたのだろうか?」(2022年9月24日) - 経済学101

econ101.jp

 もちろん、「新自由主義批判者」はこれに対して『社会保障の中でもこれこれという分野への支出が減っていて、それが「福祉国家の終焉」=「新自由主義」なのだ』といった風に、新自由主義」を定義し直して議論を洗練させることもできる。ただし、それは本当に議論の洗練になっているのか、議論をディフェンスしようとするあまり、検証しがたい定義を与えることになってしまっていないか、といったことには注意が必要だろう。

規範的根拠が曖昧

 以上は「新自由主義」なるものがそもそも存在するのか、という論点を巡っての議論だった。しかし「新自由主義批判」は「新自由主義」の実在を前提にしてそれを批判するものだ。嫌いなものに「新自由主義」というレッテルを貼りつけるだけで、それは悪いものだと示せると思っているであろう論者は多いが、これも新自由主義」が規範的に悪いということが当然の前提になっているからだ。では論者らはいかなる規範的根拠から「新自由主義」を批判しているのだろうか。ジョセフ・ヒースは以下のように指摘している。

著者たちは…じぶんたちが採用しようとしている規範的な基準がどういうものなのかをはっきり述べるのを信じられないくらい忌避していた.その結果どうなるかといえば,本まるまる一冊を費やして,「ネオリベラリズム」だなんだといったものへの抵抗をもっと強めようとする.ところが,その「ネオリベラリズム」がいったいどういうものなのかは一向に述べられない.まして,それのなにがいけないのかなんてまるで示されない.

ジョセフ・ヒース「『批判的』研究の問題」(2018年1月26日) - 経済学101

 このように、規範的議論を自明の前提としたり、実証的議論に密輸入したり、明らかに特定の規範的判断を行っていながらそれを匂わせるに留めたり、といったことは「新自由主義批判」においては頻繁に観察されるように思う。

 とはいえこうした議論はおかしいと思う人も多いだろう。例えば、「新自由主義」を批判する論拠として「格差拡大」、「世界経済の不安定化」、「金融エリートの支配力の増大」など具体的な問題を挙げている論者はたくさんいるではないか、と。こうした具体的な問題については、規範的に悪いという認識が広く共有されていると見なしてもよさそうなので、「新自由主義」から帰結するそうした具体的な問題を挙げれば、それで「新自由主義」を批判する規範的論拠は示せているのだ、という議論も確かに成り立つように思える。

 しかしそのように主張を展開した場合、「新自由主義批判者」は、新自由主義」がそうした問題をもたらしているという事実的主張の論拠を示さなければならない。こうして議論は再び、上で見たような「検証が不可能/困難」あるいは「状況の記述として適切でない」といった論点に戻ることになる。もちろんこれは「新自由主義」の規範的論拠は絶対に示せないということを意味するわけではないが、そう簡単に示せるわけではないということは言えるだろう(また、こうした理論的負担を回避するために、規範的論拠を曖昧にしたり、規範的論拠が立脚する事実的主張を検証しにくいものにしたりする誘惑が働くことも指摘しておくべきだろう)。

*14

 

議論のなされる環境について

反論がなされない/反論を無効化する

 自らを新自由主義者」と名乗る論者は非常に少ないため、「新自由主義批判」は批判に晒される機会が非常に少なく、反論に応答して議論を精緻化させていくプロセスが生じにくい、という指摘がある。リバタリアニズムを批判すればリバタリアンを名乗る論者から反論が行われるだろうから、批判と応答を通じて双方の議論が徐々に洗練されていく可能性が高い。「新自由主義」を批判しても「新自由主義者」からの反論はほとんど来ない(というか「新自由主義者」がいない)ので、粗雑な「新自由主義」批判がまかり通ってしまいやすいというわけだ*15

 とはいえ、「新自由主義」なる概念に問題があるという観点から「新自由主義批判」を批判する人間もいる*16。これに対して「新自由主義批判者」は、新自由主義批判」を批判するのは「新自由主義イデオロギーを内面化した人間だ、とか、「社会正義」をからかいたいだけの「冷笑系」だ、と応戦することが可能だ。これは直接的には、反論(つまり「新自由主義批判」批判)を無効化するという効果を持つ。

 一方でこうした反論の道徳的無効化は間接的効果も持っている。規範的スタンスは概ね同じだが事実認識において同意できない、というタイプの「新自由主義批判」批判者の多くは、「右翼」とか「金持ちを擁護したいだけ」とか「冷笑系」とかと罵られるのを不愉快に思うだろう。そのためこの時点で「新自由主義批判」批判から脱落することになる*17。こうして「新自由主義批判」はますます反論されにくくなっていくのだ*18

 以上のプロセスは「新自由主義批判」批判において必然的に生じるわけではない(実際筆者は、「新自由主義」に批判的な人とやりとりして、ある程度建設的な議論を行うことができたこともある。まぁこちらが一方的にそう思っているだけかもしれないが)。しかし、こうした光景がかなり頻繁に見られることも事実であると思う。

エコーチェンバーになっている/陰謀論的になっている

 上の論点から派生する問題だが、このように反論がなされにくい環境で議論を行ったり、積極的に反論を(反論で返すのではなく)無効化するような議論を行うことで、元から同じような信念を持った人々が集まってその信念を強化させていき、ますます批判が通じなくなる(エコーチェンバーが発生する)という問題がしばしば指摘される。

 こうなると、「新自由主義批判」は陰謀論に堕しかねないというリスクを背負うことになる。この論点については、詳しくは以下の記事を参照してほしい。

新自由主義」批判がグダグダになりがちな理由(ジョセフ・ヒース論文「批判理論が陰謀論になるとき」メモ) - 清く正しく小賢しく

kozakashiku.hatenablog.com

 

その他

右派はネオリベで、左派は反ネオリベ

 一部の左派には、右派勢力は「新自由主義イデオロギーの体現者であり、反ネオリベたる左派はそれに抵抗しているのだ、という自己認識があるように思われる。しかしこの認識はどこまでもっともらしいだろうか

 新自由主義批判」を行う右派が台頭してきているという事実は以前から指摘されてきた。最も明白なのは表現者クライテリオンに集う西部邁系の右派論客たちだ。またベストセラーである藤原正彦『国家の品格』などを見れば、「伝統」や「郷土」の価値を訴え、それを破壊する「新自由主義」を批判するというタイプの右派がありふれた存在であることが分かるだろう*19。またTwitterなどのSNSに目を転じても、『左派/リベラルは表向きは弱者に優しいが、実際には「新自由主義」を推進する欺瞞的な奴らだ』といった批判を展開する右派は数多く存在する*20

 これに関連して、新左翼や進歩的リベラリズム*21の主張が「新自由主義」を後押ししたとの認識から、そうした過去の議論を反省・批判して、今一度階級的視点を強調すべきだと訴える議論も近年ますます増えてきている*22。この観点からすれば、左派=反ネオリベという図式にも疑問符がつくことになる*23

概念を改訂すべきか、プラグマティックに利用すべきか、廃絶すべきか

(4/25に大幅に修正。詳しくは次の註を参照)

*24

*25

 以上、「新自由主義批判」批判の中で重要だと思われる論点を挙げてきた。その上で最後に取り上げたい論点は、では新自由主義」という概念を今後どうすべきなのか、ということだ。

 少なくとも現状では「新自由主義」という概念が擁護しがたいということに同意したとしても、その先で、じゃあこれから「新自由主義」という概念をどうすべきか、という点については意見が異なり得る。代表的な立場は次の3つだと思われる。

①「新自由主義概念は混乱しているが、きちんと整理して改訂すべきである

 まず、「新自由主義」概念が現時点では混乱しているなら、混乱をなんとか収束させればいいじゃないか、という立場があり得るだろう。そこで、中心的な要素を抽出したり、「新自由主義」的とされてきた要素を網羅的にリストアップしたりして、「新自由主義」概念を新たに定義し直す、というのが1つの選択肢としてある*26

 問題は、そうした概念改訂・再定義を行ったところで、その定義が普及してくれるとは限らないということだ。上で見た通り「新自由主義」の定義は乱立しているので、自らの立場から恣意的に中心的要素を選択して再定義しているだけ、ということにしかならず、真の「新自由主義」概念を各人が提唱して混乱に拍車をかけるだけかもしれない。そのため、この路線を採用するなら広く合意を得られるような定義を考案しなければならないわけだが、これは非常に困難な仕事になると予想される。

 

新自由主義」概念は混乱しているが、有益な部分もあるので、各自が定義を明示すべきである

 みんなを納得させられるような「新自由主義」概念を提示するのはしんどいだろうが、各自で「新自由主義」概念の中から自らが有用と思う部分を取り出して、「新自由主義」の意味を限定するという路線なら現実的だろう。つまり、「新自由主義」概念の混乱を認めつつ、コンセンサスを得られるような概念改訂も放棄して、各自で「新自由主義」概念の有用な部分を利用するために自身の定義を明示するという路線である

 このようにすれば、「新自由主義」概念に問題発見装置としての役割や、社会を記述・説明する装置としての役割を期待してもそれほど問題はないと言えるかもしれない。ただしこの場合でも、「新自由主義」概念を巡る混乱(定義の乱立)それ自体は放置されたままだし、論文やきちんとした論考はともかくとしても、インフォーマルな議論でいちいち定義の明示を求めるのはあまり現実的でないという問題もあるだろう。

 

③「新自由主義」概念は混乱しているだけでなくむしろ有害なので、廃絶すべきである

 「新自由主義」なる概念は混乱していて整理するのも一苦労だし、保持しておくメリットもないし、エコーチェンバーを発生させてるという明白なデメリットがある以上、廃絶してしまった方がよい(とまでは行かなくとも、まともな議論の場においては使わない方がよい)という主張も当然あり得る。これは、「新自由主義」概念の混乱ぶりを前に途方に暮れた人間の、ある意味で素朴なリアクションであると言える。

 とはいえこうした立場をとるにしても、「ここまで人口に膾炙した概念を廃絶することなどできるのか、その場合には何らかの副作用が伴わないか」、「広く流通している以上、一片の真理を捉えているのではないか、そうした真理を掬い取れるような代替概念を開発せずに廃絶を訴えるのはいかがなものか」、といった反論に対して応答する責任があるとは言えるかもしれない。

 

おわりに

 以上、筆者から見た「新自由主義批判」批判に関する主要論点をバーッと挙げてみた。書き始めてみたら想像の5倍くらいの分量になってしまったが、これからの議論が少しでも建設的なものになればと思う*27。ここで拾いきれてない論点もたくさんあると思うが(経済も思想史もよく分からないので…)、筆者は正直「新自由主義批判」批判には飽きてきているので、後は皆さんで頑張ってください。

 

デヴィッド・ハーヴェイ新自由主義』作品社

ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』みすず書房

表現者クライテリオン』2018年11号

『文化と社会を読む 批評キーワード事典』研究社*28

河野真太郎『戦う姫、働く少女』堀之内出版

稲葉振一郎『「新自由主義」の妖怪』亜紀書房

*1:ところで、「新自由主義批判」批判と言えばまず参照されるのは稲葉振一郎『「新自由主義』の妖怪』である。しかし筆者は内容を十分に理解できなかったので、とりあえずここには含めていない。もっと言えばここで挙げてる稲葉先生の記事もきちんと理解できたかは相当怪しい…。

*2:ところで「新自由主義」において国家介入が強まるというのは普通に考えれば矛盾のように思われる。ここでハーヴェイは次のように論じる。

新自由主義は…資本蓄積のための条件を再構築し経済エリートの権力を回復するための政治的プロジェクトとして解釈することもできる、以下で私は…〔その〕…目標が現実面では優位を占めてきたことを論じていく。…新自由主義的理論に見られる理論的ユートピアニズムは主として、この目標を達成するために必要なあらゆることを正当化し権威づける一大体系として機能してきたというのが私の結論である。また、種々の証拠が示しているように、新自由主義的原理がエリート権力の回復・維持という要求と衝突する場合には、それらの原理は放棄されるか、見分けがつかないほどねじ曲げられる。

デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』p32

ハーヴェイの議論において最上位の位置にくるのは「エリート権力の回復・維持」という意図であり、「新自由主義」はそのために利用される主張に過ぎず、ねじ曲げられることもままある、と捉えられているらしい(じゃあ最初からそう言ってくれない?)。ハーヴェイはこの「エリート権力の回復・維持」という意図によって「新自由主義」の理論と実践の矛盾を説明しており、これは純然たる陰謀論に近づくという別種の問題を招き寄せるが、ここでハーヴェイの議論に検討を加える準備はないので、ひとまず無視する。

*3:社会科学における概念の定義なんて大抵曖昧じゃないのか、との議論もあり、曖昧かどうか(というより、許容できないほどの曖昧さか)を判断するのはなかなか難しい。そのため本記事ではこれ以降、定義の曖昧さという論点には言及しない。

*4:とは言え、為政者が自己責任論的な心性を元に社会保障を削減するような政策をとっている、といった議論がなされることも多い。

*5:ただし、ハーヴェイにも「人間の生のすべての次元」に対する「新自由主義」の影響についての考察はあるので、キレイに議論が分かれてくるわけではない。市場原理ってなんですか?(ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』読書メモ) - 清く正しく小賢しくではハーヴェイを「経済系新自由主義批判」の論者と書いてしまったが、これは今から思うとかなり微妙な議論だった。ハーヴェイを「経済系」と単純に括れるかは現時点では判断がつかない。

*6:新制度派経済学においてこれは「市場」と対比されるところの「組織」に特徴的なコーディネーションや動機づけのツールであるということに注意しよう。

*7:80年代は新自由主義が台頭し、90年代は横ばいだったが、2000年代に入って一気に強まった、とか。あるいは例えばイギリスなら、サッチャー時代を「前期新自由主義」、ブレア時代を「後期新自由主義」と区分する議論も存在するらしい。河野真太郎『戦う姫、働く少女』を参照。

*8:このようなレッテル貼りが行われる理由もまた考えるべきかもしれない。稲葉振一郎『「新自由主義」の妖怪』は、保守イデオロギーを支えていた産業社会論の凋落以後、マルクス主義・批判理論が、資本主義を正当化するイデオロギー=分かりやすい敵を想定したかったからではないか、としている。山下ゆ のジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』 - 西東京日記 IN はてなという書評記事では、数値管理を追求する社会のトレンドがもたらした生きづらさについて、人々はその原因を「新自由主義」に求めているのではないかと論じられている。

*9:要するにprove too muchになってしまうのだ。私見では、これはフーコー系の「新自由主義批判」において顕著に見られる傾向である。

*10:先にも述べたように、デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』は、矛盾を統一的に説明するために「エリート権力の回復・維持」という意図を持ち出す(ハーヴェイはこれを議論の中心に据えているので、「アドホックな仮定」とは言えなさそうだが…)。さて、この著書でハーヴェイは「新自由主義」の理論と実践における矛盾を幾度も強調するが、果たしてそれが本当に「新自由主義」の抱える矛盾なのか、「新自由主義」に関する議論が混乱しているだけではないのか、と疑わずにはいられない。とはいえ先にも述べたように、ここでハーヴェイの議論をきちんと検討する用意はない。

*11:ところで筆者は昔バリバリの「新自由主義批判者」で、なぜ「国家の撤退」を叫ぶ「新自由主義者」が政治的・道徳的には保守的でナショナリスティックな傾向を持っているのか? という「矛盾」に頭を悩ませていたことがある。あの頃が懐かしい。

*12:さらに言えば、「優生思想」はそれ自体の規範的悪さが十分に認知されているのだから、それ自体で悪いと言えばいいという話もある。悪いものと悪いものが繋がっていると思ってしまうのは私たちの自然な傾向だが、もちろん常に繋がっているわけではない。

*13:言うまでもないことだが、違う形で定義すれば議論も全く異なるものになる。これはあくまで議論の一例である。

*14:もう1つ、「信念と状況の関係はどうなっているのか」という論点もあるのだが、うまく論じられていない気がするので、かなり長いが註に押し込めることにする。

 「新自由主義」的信念と「新自由主義」的状況に何らかの関係があるとするタイプの議論では、信念と状況の関係が問題となる。例えば、「新自由主義」的信念が「新自由主義」的状況にストレートに反映されるとする議論もあれば、「新自由主義」的信念と「新自由主義」的状況の間にはギャップがあるとする議論もある。

 ここで後者の、ギャップがあるとする議論について考えてみよう。例えば、「新自由主義」は自由競争を謳っているが、実際には「縁故資本主義」であるとか、勝ち組が勝ち続ける出来レースである、といった議論がある(なお厳密に言えば、「新自由主義」は自由競争を謳いながら「縁故資本主義」であるという議論は、「新自由主義」政策がとられた(状況)ことで「新自由主義」的社会状況がもたらされる(状況)、という状況と状況の関係についての議論であることもある)。この場合、信念と状況のギャップを説明するための議論が必要になり、例えば新自由主義」的状況(勝ち組が勝つ出来レース)を実現するために「新自由主義」的信念(競争社会という幻想)が利用されている、といった主張がなされることとなる(他にも、註で何度も言及しているが、エリート支配のためには「新自由主義」的信念がねじ曲げられることもあるというハーヴェイの主張は、ギャップを説明するための議論だと言える)。

 注意すべきは、こうして信念と状況にギャップがあるという議論を展開する場合には、信念がストレートに状況に反映されているとの認識に立った批判を行うことはできなくなるということだ。何を当たり前のことを言っているんだと思われるかもしれないが、上の例で考えてみよう。「実際には出来レースだが、人々は競争社会という幻想を見させられている」と主張した場合、「人々が競争社会という幻想に惑わされているが、実際には勝ち目のない出来レースを強いられている」という認識に立って批判することはもちろん可能だ。

 しかし、「人々は勝ち目のない競争を強いられている」状況だと論じている以上、「人々はむきだしの競争を強いられている」状況との認識に立って批判することはできない。信念がストレートに状況に反映されていると論じる場合なら、「人々はむきだしの競争を強いられている」と主張することは可能だが、ここではギャップがあると論じている以上、そうは主張できないのだ。

 もちろん「むきだしの競争」と「出来レース」への批判は原理的には両立可能だし、多くの人はどちらも批判したいと思っている。しかし現実には「むきだしの競争」は実現しておらず「出来レース」であると主張するなら、「むきだしの競争」を批判することは差し控えるべきなのだ。この点を認識せず、「むきだしの競争」と「出来レース」のどちらをも批判するなら、「それは今あなたが批判したいと思っている現実とどう関係するの?」という批判が返ってくるかもしれない。

*15:上にも挙げたジョセフ・ヒース「『批判的』研究の問題」(2018年1月26日) – 経済学101を参照。

*16:当然ながら筆者もその1人ということになる。

*17:筆者もこうした不愉快な思いは経験してきた。お前のまいた種だろと言われればぐうの音も出ないが、それでもめげなかったところは褒めてほしい。

*18:以上の議論はジョセフ・ヒース 「『じぶん学』の問題」(2015年5月30日) – 経済学101を参考にした。

*19:ただし藤原『国家の品格』はまとまった論や主張と言いうるようなシロモノではないと筆者は評価している。

*20:ただしこれは、SNS上のオルタナ右翼が「新自由主義批判」を行っていることを直ちには意味しない。自分の規範的ポジションを曖昧にしたまま、左派の欺瞞性を指摘するだけの「冷笑系」に過ぎない、という議論はあり得る。とは言え素朴に「新自由主義批判」を行っている層も相当数いるというのが筆者の見解である。

*21:ここで「進歩的」リベラリズムと書いているのは、リベラリズムには(主にマルクス主義との関係で)保守と見なされる潮流も存在するからである。

*22:河野真太郎『戦う姫、働く少女』などを参照。上でも述べたが、こうした議論がTwitter上の一部の露悪系論客による「リベラル/フェミニズムネオリベ」といった議論と似たような認識を持っている点は興味深い。今は亡き(凍結された)Twitterの代表的な露悪系論客であるeternal windがナンシー・フレイザーの議論を好んでいたと聞いたことがあるが、もし本当ならば、さもありなんという感想である。なお筆者は、この種の議論は(社会が「新自由主義」化したという前提を受け入れるにしても)新左翼の影響力を現実より過大に見積もった、裏返しの新左翼慰撫史観ではないかと疑っているが、そうした主張をきちんと行えるほどの根拠を持っているわけではない。

*23:また日本の文脈で言うと、金子勝などの「新自由主義批判」論客と見なされる左派も、土建国家批判と「新自由主義」批判の間で確たるポジションを築けず、結果的に自らが批判する「新自由主義」と似たような主張を展開しているのではないか、との批判もある。稲葉振一郎『経済学という教養』を参照。

*24:①と②について次のような指摘を受けたので、アドバイスをいただきながら改稿した。次の註も参照。

*25:当初のバージョンを載せておく。

①「新自由主義」概念は混乱しているが、きちんと整理して改訂すべきである

 「新自由主義」の定義が混乱しているとの指摘はたくさんなされてきたが、その中である程度の厳密さを持ち、社会現象の記述や説明をする上で有益なものもあるかもしれない。そういうものをきちんと選び出して整理し、「新自由主義」概念を新たに定義し直す、というのは1つの選択肢としてあるだろう。

 問題は、そうした概念改訂・再定義を行ったところで、その定義が普及してくれるとは限らないということだ。結局新たな定義が乱立して混乱に拍車をかけるだけかもしれない。例えば経済政策についての用語に限定しようという提案を行う人が現れたとしても、フーコー系の「新自由主義批判者」には無視されるかもしれない。上で見た通り「新自由主義」の定義は乱立しているので、再定義と言っても所詮は自らの立場から恣意的に「有益な部分」を選び取っているだけ、とも言える。結局は広く合意を得られ、かつ有益と認められるような定義を考案しなければならないわけだが、これは非常に困難な仕事になると予想される。

②「新自由主義」概念それ自体は混乱していて手が付けられないので放置し、有益な側面だけを利用すべきである

 「新自由主義」概念を用いて社会状況を記述したり現象を説明したりすることは確かに難しいかもしれないが、問題発見のための道具(ヒューリスティックス)として用いることは許容できるし、有用ならどんどん利用すべきだ、という立場もあり得る。その結果発見された問題に対してはまた別の記述なり説明なりが必要となるだろうが、少なくとも発見の段階で「新自由主義」概念を用いることにはなんらの問題もない、ということだ。

 この立場なら、「新自由主義」概念の混乱を認めつつも、その混乱に対処する努力を行わなくてよいので、穏当な落としどころと言えるかもしれない。関東社会学会の「新自由主義概念の社会学的再構成」というシンポジウムでも、ヒューリスティックスとしての「新自由主義」概念の意義が強調されていたので、この路線はある程度多くの人に受け入れられやすいと思われる。

*26:参考までに、リベラリズム自由主義については、定義の混乱に対処するために次のような提案がなされてきたらしい。

リベラリズムの語り方(講演「リベラリズムとは何か?」メモ) - 清く正しく小賢しく

kozakashiku.hatenablog.com

*27:まぁ書いてるうちに自分でも混乱してきて、建設的な議論に貢献できるかもよく分からないけど。また、「明らかにうさんくさい「新自由主義批判」」を例示したいときに、ウェンディ・ブラウン本に頼り切りになってしまったことは反省したい。前に読書メモ記事を出していたので持ち出しやすかったというのが一応の理由だが、本来なら相手の議論の最良の部分を乗り越えることが望ましいだろう。ま、今後「新自由主義批判」批判をやるつもりはないけど。

*28:カルチュラル・スタディーズ系の人たち(というかぶっちゃけ左派系「新自由主義批判者」)の世界観がまとまっている、という意味でおすすめ。世界観の違いを楽しもう。