「新自由主義」批判がグダグダになりがちな理由(ジョセフ・ヒース論文「批判理論が陰謀論になるとき」メモ)

 今回紹介するのは、ジョセフ・ヒースの論文「When does Critical Theory Become Conspiracy Theory?」である。この論文でヒースは、「新自由主義」概念をルーズに用いた議論などを念頭に置きながら、批判理論が陰謀論に堕してしまう条件、さらにまっとうな批判理論と陰謀論紛いの批判理論を分かつ特徴を検討している。

 なお批判理論というのは、とりあえず「規範的目的を明示した社会科学的探究」ぐらいの意味で捉えればよいと思う。批判的社会科学や批判的〇〇研究を名乗っている研究はもちろん批判理論に含まれるし、左派的なポジションを明示した研究の多くも含めることができるだろう。

 どれくらい知られていることなのかは分からないが、ヒースはハーバーマスの弟子であり、自らを批判理論の伝統に属する研究者と位置付けている*1。それゆえにこそ、堕落した批判理論に対して厳しい態度をとっているという面もあるだろう。

 批判理論という言葉を使うと、日本とは関係ないヨーロッパやアメリカの話と思われるかもしれないが、本文を読んでいけば、日本でもこの論文で批判されているタイプの議論が流行っていることは分かるはずだ*2

 

 なお、要約するにあたって多少(かなり?)議論の順番を入れ替えたのと、原文にはない小見出しを追加したので、その点はご了承願いたい。まぁそうでなくたって、要約の時点である程度恣意的な操作は加えざるを得ないのだけど。

 また、この論文の基本的な主張は既に、以下のブログエントリでも述べられている。従って本論文の主張は、ヒースの読者にとってはそこまで目新しいものではないが、これらをフォーマルにまとめなおしたものとして読めると思う。

ジョセフ・ヒース「何がヒトを陰謀論者にするのか?」(2016年12月5日)

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ジョセフ・ヒース「規範的な社会学(normative sociology)の問題について」(2015年6月16日)

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ジョセフ・ヒース「『批判的』研究の問題」(2018年1月26日)

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ジョセフ・ヒース「『じぶん学』の問題」(2015年5月30日)

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はじめに

  • 現代の批判理論の文献を読むと、新自由主義」は非常に大きな力を持っていることになっている現代社会の様々な問題で、新自由主義のせいにされていないものを探す方が難しい。例えば、エコノミー・クラスの座席の足元が狭いことも新自由主義のせいだとする論者すらいる*3
  • 論者の中には、モンペルラン協会の設立以降、新自由主義を信奉する人物が重要な社会的ポジションに就いて勢力を拡大し、サッチャーレーガン、鄧小平、更にFRB議長ボルカーなどによって革命が実行され*4、今では人々が自覚できないほど社会の隅々にまでこのイデオロギーが浸透している、というストーリーを展開する者もいる。このように隠れた秘密結社の存在を想定する議論は、明らかに陰謀論である。
  • しかし、(秘密結社のような)陰謀を企てる主体を想定しない新自由主義論が、陰謀論的であるとの非難を免れているというわけではない。陰謀論は、陰謀を想定する議論としてではなく、不合理な信念を疑えなくなる認知的な罠として捉えられるべきである。この観点からすると、新自由主義論(を含む批判理論の主張)と陰謀論の差は非常に小さくなる
  • 本論文では、批判理論(規範的前提を明示した社会科学的研究)は完全に正当化可能だが、陰謀論的思考に陥るリスクを生み出すような方法論的主張を行いがちであるということを示す。ただし批判理論家は、そうした方法論的主張を放棄するべきではなく、より注意深く、倹約的にそれを用いるべきだと私は考えている。
  • 批判理論は当初から自己反省にコミットしており、本論文の議論も批判理論の自己反省のプロジェクトの一環と言える。

陰謀論とは何か

  • 陰謀論という語は従来、「現実の様々な出来事を、悪い目的(陰謀)のために隠れて働く個人やグループの存在によって説明する」という内容面に焦点を当てて定義されることが多かった。しかし現実に陰謀は存在してきた以上、この定義では陰謀論が普通の信念と区別される理由が十分示されていない。
  • 陰謀論の本質的特徴は、不合理なプロセスによって信じられ、信じた人はその信念の不合理さに気づけなくなり、更に他者からの批判に激しく抵抗するようになる、というところにある。

陰謀論をもたらす認知バイアス

  • 陰謀論には主に2つの認知バイアスが働いている。1つは過剰なパターン検出(アポフェニア)、もう1つは確証バイアスである。
  • 陰謀論は、実際には繋がりのない出来事に繋がりを見出したり(点と点が繋がった!)、存在しない規則性を見出したりする(パターンが見えた!)ところから生まれる。このように、パターンのないところにパターンを見出してしまう認知バイアスを、「過剰なパターン検出」(アポフェニア)と呼ぶ*5
  • 人間は過剰なパターン検出能力を持っている。これは進化的観点からもっともらしい説明ができる。茂みからガサガサと音が聞こえたときに、実際に蛇がいるのにいないと思ってそのまま突っ立っているか、蛇がいないのにいると思って逃げ出すか、という状況を考えると、後者の方が生き残りやすいだろう。そのため私たちは、統計学の言葉で言うと、第2種過誤(偽陰性)よりも第1種過誤(偽陽性)を犯しやすい。つまり、パターンがあるのにないと考えるより、ないのにあると考える可能性の方が高いのだ。
  • もちろん、一旦存在しないパターンを検出してしまっても、きちんと精査すれば実際にはパターンが存在しないことに気づけるかもしれない。パターンが存在しないのに存在する思ってしまってないか(つまり偽陽性ではないか)を確認するのには、パターンが存在しない(つまり真陰性である)証拠がないか確認すればよい。しかし、人間はパターンが存在しない証拠を確認する(反証を探す)のが苦手で、パターンが存在する証拠ばかり確認しようとする(確証を探す)傾向を持っており、これを「確証バイアス」と言う*6
  • 確証バイアスの存在が示すのは、動機づけられていない(その信念を信じたいと思っていない)場合でも、人はその信念を確証する証拠を集めようとする傾向を持っているということだ。更に確証バイアスは内観(意識的反省)によって把握することが困難である。
  • 陰謀論が生み出され受容されるメカニズムをまとめておこう。まず人間の過剰なパターン検出能力によて、関連性のない出来事に関連性が見出される。次に確証バイアスによって、関連性が存在する証拠ばかりが探され、関連性が存在しない証拠は探されないので、現実には関連性が存在しないことに気づけなくなる。この点で、陰謀論は信仰を求める宗教よりも認知バイアスを修正する道具立てを持たない(つまり反証を見つけるのを促す仕組みがない)疑似科学に似ている

陰謀論を防ぐコントロール

  • 以上見てきた認知バイアスは、私たちの誰しもが持っているものである。私たちが(大抵の場合)そうした認知バイアスにハマって陰謀論に陥っていないのは、認識的コントロールと社会的コントロールという、2つのコントロールが働いているからである。
  • 認識的コントロールとは、信念をきちんと精査にかけて、認知バイアスを乗り越えることである。自分自身で反論を考えたり、他者から反論をもらったりして、その信念をしっかり検討することで、認知バイアスという自然な傾向から逃れるのである*7
  • 社会的コントロールとは、社会的圧力のことである。誰も信じていなかったり、信じていたらバカにされるような信念は、信じにくくなるだろう。このような社会的圧力によって、不合理な信念を信じずに済むのである*8

弱い陰謀論と強い陰謀論

  • 以上の観点から、陰謀論は「弱い陰謀論」と、それよりも有害な「強い陰謀論」に区別できる*9
  • 弱い陰謀論は、認知バイアスに対するコントロールが存在しないような社会環境で広まる陰謀論である。例えば似たような考えを持った人々の集団では、(他者からの否定的反応といった)社会的コントロールも、(他者による反証の提示といった)認識的コントロールも存在しなくなるので、しばしば陰謀論が広まりがちである。
  • これに対して強い陰謀論は、認知バイアスに対するコントロールを積極的に無効化しようとするタイプの陰謀論である。これは、オーディエンスを制限して社会的コントロールを意図的に除いたり、認識的コントロールを無効化したりすることで実現される。*10
  • 強い陰謀論における認識的コントロールの無効化は、「信じられていない理由の説明」*11と「認識論的隔離」に分けられる。
  • 陰謀論が正しいならば、多くの人はなぜそれを信じていないのかが説明されなければならない。これが「信じられていない理由の説明」である。悪い目的(陰謀)を持った主体が重要になるのはこの場面である。陰謀主体が存在するなら、多くの人が陰謀自体を知らなかったり無視していたりすることは容易に説明できる(ユダヤ人がメディアをコントロールしているから、といった具合に)。これは社会的コントロールを無効化する面もある。
  • 陰謀論は、反証として提示される証拠が反証にならないことを示すことで、無敵の理論になれる。いかなる反証も受け付けないようにするということは、陰謀論を認識的コントロールから隔離することなので、「認識論的隔離」(epistemic isolation)と言える。認識論的隔離は、単に理論を曖昧にして反証不可能にしたり、反証自体が陰謀によって人々に植え付けられたと主張したりすることで実現される。

陰謀の存在は陰謀論に不可欠ではない

  • 以上の分析は、陰謀論の内容ではなく、形式的特徴に焦点を当ててきた。重要なことは、陰謀論には必ずしも陰謀主体が必要なわけではないということだ。陰謀論はパターン検出から始まるが、そのパターンを説明するメカニズムとして陰謀主体(秘密結社、エイリアン、神など)が採用されやすいというだけで、陰謀主体が想定されているか否かは本質的な要素ではない
  • 逆に言えば、あるパターンを構造や制度やシステムから説明しており、陰謀主体を想定していないからといって、陰謀論であるとの非難を直ちに退けられるわけではない

批判理論の認識論的リスク

間違った批判理論としての陰謀論

  • 陰謀論者を特徴づけるのは、騙されやすさではなく、間違った方向の懐疑主義と、人間に対するナイーブなシニシズムである。陰謀論者は、社会的に広く受け入れられたメインストリームの情報源を拒否することで(間違った方向の懐疑主義)、陰謀論と整合しない主張を無視することができる。また、人間は自己利益で動くものだと決めつけて(ナイーブなシニシズム)、粗雑な「誰の利益になるか」(cui bono)思考を行う(批判者に対しても「誰の利益になるか」思考を適用してはねつける)。陰謀論者は、自らを優れた批判的思考の実践者だと考え、自らの理論や「誰の利益になるか」思考を受け入れない人々は批判的思考が足りないと思っている。
  • そのため陰謀論は、教条主義の発露というよりも、間違った批判理論として捉えるのが適切である。しかしでは、批判理論に従事する研究者が正しい批判理論を行えているとどうして言えるのだろうか。
  • まず、批判理論、批判的社会科学、批判的〇〇研究といった、科学的探究において規範の果たす役割を明示化した研究は、多くの場合全く問題がない。マックス・ペンスキーやラリー・メイによるジェノサイド研究はこの好例で、ジェノサイドを予測し防ぐという規範的目的を掲げつつ、一切の認識論的問題を生じさせずに社会科学的探究が行われている(なお本論文では、批判理論の伝統の下で行われてきた、社会批判の規範的基礎の探求という2階の問題には立ち入らない。規範的目的を明示した社会科学的探究という1階の問題を扱う)。

批判理論の構造

  • 批判理論の多くは、搾取、抑圧、支配、分配の問題を暴露することを規範的目的としている。そのため批判理論は、受益者と被害者を特定し、受益者が被害者を支配・搾取するメカニズムを想定する、という構造をとる。最も有名なのはマルクス史的唯物論で、資本家が受益者、労働者が被害者であり、剰余価値を得ることが搾取のメカニズムとして想定されている。家父長制、白人至上主義、植民地主義、経済的不平等の分析にも、同様の構造は見て取れる。
  • こうした理論を検証可能な仮説にする際には、3つの理論的精密化を行わなければならない。①受益者がどのようにして搾取・支配のメカニズムを維持しているか(集合行為の構造の精密化)、②観察される不平等が受益者と被害者の非対称な関係から生じるメカニズムはどんなものか(搾取・支配のメカニズムの精密化)、③搾取・支配は被害者にどんな影響を及ぼすか(実現の精密化)。

批判理論の構造(論文の図を和訳)

批判理論の問題

  • 批判理論の構造に内在的な欠陥はない。しかし陰謀論の構造と似ていることも確かである。批判理論が正しいものかどうかは、仮説が検証可能か/経験的に検証されたかに依存する。
  • 3つの精密化の各段階において、問題が起きがちである。
  • ①集合行為の構造。受益者グループが支配・搾取のメカニズムから利益を得ているというだけでは、受益者グループが実際にそのメカニズムを維持するために行為している証拠にはならない。受益者グループは個人で構成されており、個人が集団の利益のために行為するには、広範なコーディネーションと協力が必要になるからである。粗雑な陰謀論者は秘密の会合のようなものを想定するが、多くの陰謀論、そして批判理論は、コーディネーションと協力がいかにして行われているかを説明せず曖昧にぼかしている
  • ②搾取・支配のメカニズム。搾取・支配のメカニズムは、(伝統的な植民地主義や封建主義などの場合を除いて)観察不可能であり、理論的に仮定されるものである。更に、メカニズムが観察可能なら被害者がそれを許していないだろうという考えから、隠れた搾取・支配のメカニズムが探求されることになる。単純な陰謀論はマインドコントロールなどを想定するが、批判理論も言説編成における「規範」や「論理」の影響を想定しており、陰謀論と大きく異なるわけではない。
  • ③実現。想定した搾取・支配のメカニズムによって、現実の悪い出来事のうちのどの範囲を説明することができるのかという問題がある。批判理論家はメカニズムと出来事の間の因果関係を検証する能力が高いわけではなく、陰謀論者と同様に確証バイアスに陥りがちである(例えば前後関係を因果関係と捉える誤った推論を犯してしまう)。また進歩的な活動家たちの扱う問題を結び付けたいという欲望から、カニズムによる説明の適用範囲を広げようとしがちである*12
  • それぞれの局面で問題が生じると、様々な問題の根底にある(存在しない)結びつきを想定し、受益者がどのようにメカニズムを維持しているかも、問題はどの程度メカニズムのせいにされるべきなのかも曖昧にした、怪しげな批判理論が生み出される。ひどい場合には、受益者があり得ないほどの協力とコーディネーションの能力を持っており、マインドコントロールのようなメカニズムが存在し、互いに独立な数々の社会病理が実現されているというような、ダメな批判理論になる。
  • 認識的コントロールや社会的コントロールが欠如するという条件が整えば、批判理論は弱い陰謀論となる。大学のゼミやカンファレンス、専門誌といった狭く同質的なサークルは、そうしたコントロールの欠如した社会環境を容易に生み出し得る。

認識論的リスクをもたらす方法論的主張

  • 更に、批判理論を強い陰謀論にしてしまう方法論的主張が存在する。以下ではそうした方法論的主張を4つ取り上げるが、最初の2つは認識的コントロールを取り除き認識論的隔離を行うもので、次の2つは社会的コントロールを取り除き「信じられていない理由の説明」を提供するものだ。
  • こうした方法論的主張は、必然的に間違った理論を生み出すわけではない。しかし、自らに都合のいい仕方で用いると、問題が発生する。そのためこうした方法論的主張は、批判理論に(陰謀論に堕してしまうという)認識論的リスクをもたらす要因と捉えるべきだ。
  • 以下の議論では、特定の批判理論については論じない。陰謀論に堕した批判理論に反証を提示するのは無意味であり、方法論的な問題点を指摘して反省性を喚起するくらいしか手立てがないからだ。こうしたやり方は藁人形論法であるとの反論を喚起するだろうが、批判理論家が下記の見解の影響力を認識することを願っている。
虚偽意識としてのイデオロギー
  • 初期の批判理論は、支配構造は被害者(あるいは大衆)にイデオロギーが植え付けられることで安定化すると考えていた。このように、人々がイデオロギーに囚われているとする議論は、理論の反証を困難にする(例えば、資本主義下において文化装置が大衆を騙しているとするなら、「労働者は社会主義の下でよりよい生活を送れる」という主張は反証不可能になる)。
  • イデオロギー論は、自らへの批判を退ける道具に使われるとき、特に有害なものとなる。批判理論によればイデオロギーの暴露は受益者にとって脅威となるから、批判理論に異議を唱える人はみな受益者であるとして無視できる(多くの批判理論家が主流派経済学を退けようとしているところにもそれは現れている)。
  • ある集団が誤った信念に囚われており、それによって問題が生じているということはあり得る。しかしこの見解はあくまで他の理論が軒並みダメだったときの最終手段であり、大抵は批判者の意見を無視するためにイデオロギー論が用いられている。
  • 更に、理論への批判を単なるイデオロギーの表出ではなく、理論を確証するものと見なすとき、認識論的隔離が助長される。受益者を攻撃する議論について受益者から批判が来た場合、その批判自体を理論が正しい証拠として扱いたくなる誘惑がある。こうした「NoはYesを意味する」式の推論は、フロイト精神分析理論を無敵の理論にするとともに、認識論的隔離を助長して、その信頼を凋落させたものである。
ラディカルな批判へのコミットメント
  • 批判理論はラディカルであることが期待されている。つまり、一連の社会問題の根底にある(ラディカル)構造的問題を特定することで、問題を一挙に解決するより革命的(ラディカル)な実践をもたらすことが期待されている。
  • 言うまでもなく、深刻だが互いに独立である問題が存在することは容易に想像できる。しかし批判理論家はこれを経験的に検証しようとはしない。社会問題の根底に構造的問題があるという想定は、点と点を繋げる過剰なパターン検出を促す(新自由主義に関する様々な説明を見よ)。また根底にある問題は経験的に観察不可能なのだから、反証を拒否しやすくなる
  • また、ラディカルな分析に焦点を当てることで、分析に基づいた改革が失敗したときには、改革のラディカルさが足りなかったのだと言い逃れできるようになる*13。更に、真にラディカルであるためには、メインストリームで受け入れられている概念を拒否しなければならないとして独自の枠組みを設定することで、枠組みの外部からの反証が拒否されるという問題も生じ得る。
スタンドポイント認識論
  • 批判理論は狭く同質的なサークルで生産されることで認識的/社会的コントロールが欠如しがちだが、この問題は、(問題のあるタイプの)スタンドポイント認識論の主張によって悪化する。
  • スタンドポイント認識論の中心的主張は、特定の社会的ポジションにいる個人は特定の主張に対して認識論的な優位性を持っているというものである。ここで扱いたいのは、サンドラ・ハーディングのような、多様な視点から問題にアプローチしてより客観的な認識を獲得しようという客観主義的なスタンドポイント認識論ではなく、パトリシア・ヒル・コリンズなどが主張する、ある社会的ポジションにいる個人は、それ以外の個人には評価不可能な真実を明らかにできるという相対主義的なスタンドポイント認識論である。
  • スタンドポイント認識論によると、被害者ポジションの人は抑圧的なシステムから被害を受けており、パターンに気づかざるを得ないので、システムの理解において認識論的に優位である(女性は家父長制の理解において認識論的に優れている、といった風に)。一方、受益者ポジションの人は、パターンに気づかないでいられるし、それを拒否するように動機づけられている。(これは被害者がイデオロギーの犠牲になっているという伝統的なイデオロギー論とは真逆であることに注意。)
  • 被害者ポジションの人の洞察の方が認識論的に優れているという主張は、倫理的・直観的なもっともらしさが根拠になっている。しかし犯罪学(被害者の証言の信頼性に関心を持ち続けてきた分野)の経験的研究によれば、加害者は自分の行為の影響を小さく見積もろうとする一方で、被害者はパラノイア的な主張を行いがちである。これは、結局真実を探求するには両者の意見に向き合わなければならないことを示唆している。
  • スタンドポイント認識論の最も厄介な影響は、批判理論家が受益者ポジションに位置する人からの反論を無視できるようにしてしまうことである。批判理論に批判的になる可能性が高いのは受益者ポジションにいる人なので、これは重要な認識的/社会的コントロールを手放すことを意味する。
道徳的主張と因果的主張の混同
  • 批判理論の特徴は、価値自由を拒絶して、価値を明示的要素として組み込んだ社会科学的探究を行ってきたことである。しかし、だからといって事実と価値の区別ががなくなるわけではなく、因果的主張と道徳的主張の区別は存在する
  • 因果的主張と道徳的主張の混同は、「規範的な社会学」を生み出す。規範的な社会学においては、望ましくない政治的含意を持った因果的主張が拒否される。例えばアメリカにおける貧困の文化論争では、貧困の原因の探求が「被害者非難」と批判された。また、道徳的に非常に悪い事象が因果的にも重要であるとされ、それに異議を唱えることは道徳的な悪さを過小評価することと見なされることもある。
  • 道徳的主張と因果的主張の混同によって、批判理論に突きつけられる批判のレベルは非常に低くなる新自由主義や家父長制は大きな影響力を持っているという(因果的) 主張への批判が、新自由主義や家父長制の擁護(つまり道徳的主張への批判)であると見なされる状況では、建設的な批判を行えたはずの人も自己検閲して批判しなくなる。結果、元から道徳的・政治的意見が異なる人が建設的でない批判を行うだけになり、主張を批判する人は異なる道徳的意見を持った人であるという認識が助長される。

批判理論のアイロニー

  • 批判理論は、教条主義的な面や、認識論的隔離のやり口を批判されてきた。こうした問題は、批判理論家が認識論的リスクに十分に注意してこなかったことから生じていると思われる。
  • しかし、批判理論に認識論的リスクをもたらす方法論的主張は、完璧に正当である場合もある。ラディカルな批判が求められたり、被害者の主張に大きな信頼性を割り当てるべき場面は存在するのだ。しかしこうした方法論的主張は、正当な異論を排除したり、理論にとって不都合な事実を無視したり、批判者を黙らせたりと、自らに都合よく用いることもできる強力なものだ。
  • 批判理論の目的は、社会問題を解明するだけでなく、それを解決しようとする人に実践的な指針を提供することである。道徳的にはもっともらしいが現実とは合致しないような社会問題の理論は、実践的な指針として役に立たないばかりか、社会変革の妨げとなる
  • 批判理論家は、社会変革が成功しなかった場合に、自らの理論を修正するのでなく、自己過激化に走りがちである。つまり、当初の理論が十分にラディカルでないと見なして、よりラディカルな原因を探求するのだ。この自己過激化によって、批判理論はどんどん現実から乖離し、強い陰謀論と化していく
  • 批判理論家は当初から、自らの実践を自己反省しようとしてきた。しかし認知バイアスは、意識的反省によっては把握できないという特徴を持っている。よって批判理論には、意識的な自己反省だけでなく、自らの理論的実践から距離を取ることが必要になる。そして陰謀論と批判理論の大きな違いは、批判理論が自らと十分な距離を取るために必要な資源(社会的・制度的なものも含む)を持っていることである。

*1:例えばホームページでは、My work is all related, in one way or another, to critical social theory in the tradition of the Frankfurt School.とハッキリ記している。Joseph Heath Home Pageを参照。

*2:また、批判理論はその起源からして左翼的なもので、本記事でも扱っているのは左派の主張だが、新自由主義批判は右派も行っている。ただし右派の新自由主義批判に、本論文での主張が直ちに適用できるわけではない。

*3:ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか 新自由主義の見えざる攻撃』みすず書房、p23-24に以下のような記述がある。「新自由主義は、もっとも一般的には、経済政策の全体を自由市場の肯定という根本原理に合致するように規定するものだと理解されている。これらの政策に含まれるのは、産業と資本移動の規制緩和、福祉への国家至急と弱者保護の大幅縮小、(中略)、行列を避けることから飛行機のなかで脚を伸ばす空間を確保すること、そして最近では、経済と日常生活の力学におけるあらゆるものの金融化と金融資本が生産資本にたいしてさらなる優位をきわめることにいたるまでの、人間の欲求または欲望のすべてを有益な事業に転換することである。」。ヒースは他に、ニック・スルニチェクやBonnie Urciuoliなどを新自由主義批判論者の例として挙げている。

*4:ところで、日本と諸外国の新自由主義論の違いというと、ボルカーの名前が挙がるかどうかというのがあると思う。

*5:原文ではapopheniaと書かれているが、ここでは読みやすさを考慮して「過剰なパターン検出」という言葉を用いることにする。

*6:これはピーター・ウェイソンの「2,4,6課題」で確かめられる。ジョセフ・ヒース「何がを人を陰謀論者にするのか」(2016年12月5日)を参照。

*7:学問は主に認識的コントロールを用いて確証バイアスを排除している。ジョセフ・ヒース「哲学における敵対的文化を擁護する」(2016年12月19日)参照。

*8:ここはやや反発を招きやすいところかもしれない。スティグマ化や同調圧力は、特に左派においてはほぼ間違いなく否定的に評価されるものだからだ(ヒースは他の論文や著書でも、意志は外部足場に支えられているという主張から、セルフコントロールを手助けするものとしてスティグマ化や同調圧力をある程度擁護している)。とは言え、昨今は右派が「自分の頭で考える」といった主張を盛んに行っている反動でか、左派の間でも「自分の頭で考えることにはヤバい面もある」との認識が広まっており、権威主義を大っぴらに許容する風潮も生まれているような気もする。スティグマ化や同調圧力が全否定される風潮もいずれ消えていく可能性は十分にあるだろう。

*9:これは認識論的バブルとエコーチェンバーの区別に対応しているかもしれない。

aizilo.hatenablog.com

*10:正直ここらへんのまとめ方には自信がない。見通しよくするために、無理矢理スッキリとした構図に落とし込んでいる自覚もあるが、まぁ気になる方は原文を読んでほしい。

*11:これは原文ではerror acount(陰謀論が正しいとして、なぜ多くの人は陰謀論を信じていないのか=間違っているのか、についての説明)と書かれていたが、「誤りの説明」ではなんのこっちゃ分からないので、「信じられていない理由の説明」とさせてもらった。

*12:この論点はヒースのクライン批判でも展開されている。

econ101.jp

*13:余談だが、この指摘は批判理論に関わらず、ラディカルな改革を謳う議論全般に適用できるだろう。もちろん、現代の改革好きな右派にもそのまま適用可能である。