『どうしてわれわれはなんでもかんでも 「新自由主義」 のせいにしてしまうのか?』@阿佐ヶ谷ロフト

荒木優太、矢野利裕、稲葉振一郎"どうしてわれわれはなんでもかんでも「新自由主義」のせいにしてしまうのか?"

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 というイベントに行ってみた。以下、イベント内での発言(を筆者がざっくりまとめたもの)にコメントをつけていくという形で、思ったことをつらつら書いてみる。イベントで出た論点は多岐にわたっており、ここではその一部しか取り上げていないので、その点は承知しておいてほしい*1

 イベントで主に議論の対象となっていたのは左派・人文系の「新自由主義批判者」なので、本記事でも「新自由主義批判者」という語は主にそのタイプの論者を念頭に置いている。

 なお、本記事ではかなり雑なことを言っているが、より丁寧な議論というかオフィシャルな見解はこちらの記事を読んでほしい*2

新自由主義批判」の何が問題とされてきたのか - 清く正しく小賢しく

kozakashiku.hatenablog.com

 

  • 新自由主義」と名指されるような個々の事柄を批判したい気持ちはよく分かる。が、そこで「新自由主義」という言葉を使うと焦点がぼやけて、事柄ごとに是々非々で判断できなくなってしまう。

 「新自由主義」という言葉を使うと、批判したい/すべきものも批判できなくなったり、そもそも何を批判したかったのかが分からなくなったり、ということはありがちなので、この点を強調するのは重要だと思う。規範的スタンスを共有しながら「新自由主義批判」を批判するタイプの論者は、概してこのような認識を持っているものと思われる。

 

  • 教育の現場で働いていると、大学教員の「新自由主義批判」にリアリティを感じない。

 これは矢野さんの発言。「新自由主義批判者」も「新自由主義批判」批判者も、基本的に頭でっかちな議論をやってることが多く(もちろん筆者もそうだ)、こういう現場からの視点というのは新鮮に感じた。もちろん、現場にいながら「新自由主義」にリアリティを見出している人もいるだろうから、話はそこまで単純ではないけど。

 

 これは稲葉さんに対する荒木さんの指摘で、イベントではあまり展開されずに終わってしまったけど、稲葉さんの見解を聞きたいところだ。

 

  • なんで資本主義ではなく「新自由主義」を批判するのか。結局、「資本主義だけ残った」という結論を論駁することはできないけど、それを受け入れるのも嫌なので、「新自由主義批判」に逃げてるだけではないのか。
  • 「資本主義だけ残った」のだとしても、福祉国家をきちんと立て直しましょう、とか色々努力の余地はある。それでは満足できずに、何かデカい話がしたい、という雰囲気を「新自由主義批判者」からは感じる。

 この点に関して言うと、「新自由主義批判」を解毒するには、まず福祉国家についてきちんとした議論を行わなければいけないよな、と改めて思った。「新自由主義批判」が混乱している原因の1つは、福祉国家に関する議論が錯綜していることにあるはずだ。ということで、筆者としてはひとまず、ジョセフ・ヒースの福祉国家論をきちんと紹介できたらなと思う(いつになるかは分からない)。

 

  • ブルシットジョブと「新自由主義」を繋げる議論がある。しかし「お役所仕事」の増大を「新自由主義」と呼ぶのはどうなのか。両者は関係するかもしれないけど別のことでは。
  • 対人サービスにおいてなんとなく信頼で成り立ってきたものが解体され、報告書や監査が増えた、という現象は確かにあるだろうけど、それは「新自由主義」なのか。

 これで思い出したが、ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』で、数値管理やアカウンタビリティへの過剰な執着は、専門家に対する信頼の凋落と表裏の現象であり、専門家に裁量を与えたくないというモチベーションが数値管理のトレンドを推進している、という議論がなされていた。

 「測りすぎ」的な現象をストレートに批判するなら分かるが、あえて「新自由主義」という概念を持ち出すなら、両者を結び付ける議論をきちんと組み立てなければならない。そこで、数値管理は市場原理で…といった議論を持ち出す論者が出てくるわけだが、それは市場というより組織(ヒエラルキー)に特徴的なものだろう。ということで、この種の議論を行うならもう少し複雑な議論が必要になるわけだが、残念ながら「資本主義は全てを数値化する欲望を持っており~」みたいな謎理論で済ませてしまう論者も少なくない。

 なお山下ゆブログは、この「測りすぎ」がもたらす息苦しさを人々は「新自由主義」に求めているのではないか、と論じている。

ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』

ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』 - 西東京日記 IN はてな

morningrain.hatenablog.com

酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎』

 

  • アイデンティティ・ポリティクス、承認の政治というトレンドによって左派が労働や経済の問題から離れた、という反省があり、マルクスへの再注目が起こった。

 この点についてイベントでどういう議論が展開されてたのか、具体的にはあまり思い出せないけど、この論点にかこつけてちょっと思っていたことを書いてみたい。

 筆者の観測範囲の問題かもしれないが、日本だと「左派は経済問題に取り組め」系の左派と、人文系「新自由主義批判者」とが対立しているという構図があるように思われる(両者を便宜的に、「経済政策系左派」と「人文系左派」と名付けよう)*3

 私見では、両者は(対立するかは分からないが)少なくとも区別された存在ではある。しかし、これを単純な経済左派アイデンティティ・ポリティクス系左派の区別と重ねるのは微妙な議論だ。というのは、例えば河野真太郎『戦う姫、働く少女』などを見れば分かるように、アイデンティティ・ポリティクス系の左派が経済問題をおざなりにしてきたとの反省は、現代の人文系左派も表明しているからだ。恐らく、ナンシー・フレイザーの影響を受けている論者の多くは、自分たちが経済の問題に「も」取り組んでいるという自認を持っているはずである。むしろだからこそ、年がら年中「新自由主義」の話ばかりしているのだ。

 経済政策系左派と人文系左派の双方が、経済の問題を語っている、という自認を持っているなら、両者はどういう点で区別されるのだろうか。この点について述べるために次の論点に移ろう。

 

  • なんで社会科学者でもない文学研究者・文芸批評家が「新自由主義」批判に熱心なのか。

 これはイベントで繰り返し話題になった論点で、本記事の言葉で言い直せば、人文系左派はなんで「新自由主義」の話が大好きなのか、という話である。そもそも、文学をやっている論者は、どういうモチベーションで、またどういう資格で社会の話をしているのだろうか。経済の問題や資本主義について何かを語りたいなら、なんでフィクションや人文書ばっかり読んでるのだろう。経済や資本主義について語るための道具を人文学の中だけから調達するというのは、かなり奇妙なことだ。

 この点について、イベントでは様々な理由が挙げられていたが、稲葉さんの次の発言はこの論点について考えるための手助けになりそうである。

 確かに、資本主義は確立した経済体制である一方、「新自由主義」はイデオロギー(の産物)と見なされやすいという傾向はあるだろう。そして敵が「新自由主義」なるイデオロギー(の産物)なら、「言葉」で分析できそうだし、「言葉」の力で対抗できそうな気がしてくる。これならば、経済についても人文学の道具によって有効な分析や抵抗を行える。このようなプロセスで、人文系左派は「新自由主義」なるものを措定したくなるのではないか、と筆者は考えてしまう。

 しかし本当に、人文系左派が考えているほど、「言葉」に社会を動かす力があるだろうか? 人文系の論者に、社会において「言葉」が果たす役割を過大に見積もり、人文学の役割を強調したくなる誘惑が働くことは想像に難くない。このような認識は、いつまでも政策の話を回避し続け、文化政治の継続を正当化する言い訳として機能していないだろうか?

 もちろん以上の議論は、隠された動機を勘繰るもので、根拠に乏しく、かなりいやらしい*4。一方で、ある程度人文系「新自由主義批判」に触れてきた立場からすると、自然とこのような発想を抱いてしまうというのもまた事実である*5

河野真太郎『戦う姫、働く少女』

 

  • 新自由主義」という言葉は取り扱い注意である、ということをいかに伝えていくか。「新自由主義」とか言ってる奴はバカだ、では伝わらないのでは。

 人文学に親和的な論者と経済学に親和的な論者が、「新古典派経済学イデオロギー」とか「人文さんの経済論はトンデモ」と互いにディスりあう構図はありがちだが、あんまり生産的・建設的ではないというのは確かだろう(他人事のように書いてるけど、まぁ本記事の議論もだいたいそんな感じだ)。なので、荒木さんや矢野さんなど、人文業界の(「新自由主義批判者」の気持ちが分かる?)人たちがこうやって色々議論してくれるのは非常に頼もしい*6

 一方で、個人的には、別にいくら頑張っても河野真太郎先生とかそこらへんの人たちには無視され続けるだろうな、という諦めもあるので、そんな優しい態度をとったってどうせ何も変わらないよ、みたいな気持ちがなくもない。

 

 

 以上、色々コメントしてみたが、全然考えがまとまっていないような議論もえいやっと入れてしまったので、話半分で読んでくれればと思う。

 



*1:また、発言のまとめ方が発言者の意図を歪めてしまっている可能性もある。

*2:イベントで荒木さんがこの記事について言及してくださってました。ありがとうございます。

*3:ここで、「経済政策系左派」というのは、ブレイディみかこ北田暁大松尾匡『そろそろ左派は経済を語ろう』に代表される立場だと思った読者もいるかもしれない。それは別に間違ってないが、ここではマクロ経済政策(の特定の立場)にコミットする論者を念頭に置いているわけではなく、ミクロ経済政策も含めて、政府による様々な政策や規制を重視する左派を指している。例えば筆者は、マクロ経済政策についてはよく分かってないので特定の立場にコミットしていないが、とりあえず市場の失敗への対処は重視しているので、経済政策系左派に括られることになるだろう。

*4:なので前回の議論では触れなかった。

*5:向こうはこちらを、「新自由主義」という真に重要な問題に抵抗せず、むしろその抵抗を揶揄する「冷笑系」だと思っているだろうが、こっちも向こうを、変な敵をでっちあげて本当に重要な問題に取り組むための改良主義的議論を拒否する「冷笑系」だと思っているので、おあいこというところだろうか。

*6:筆者も昔はバリバリの「左派新自由主義批判者」だったので、本来なら「新自由主義批判」を行う人たちの気持ちに寄り添った(?)ような議論を行えるはずなのだけど、近親憎悪というか転向者の常というか、ついつい意地悪な悪口ばかり言ってしまう。