シントピコン索引を実際に使ってみた

 「シントピコン索引」の趣旨がいまいち分かりにくいように思うので、実際の使用例を示してみたいと思う。

  具体的には「20教育」(Education)の[5c学習の性質:そのいくつかの形態] (The nature of learning: its several modes)を例にとり、ページ数が短めの参照箇所をいくつか選んで、ここに載せてみることにする。1個1個じっくり読んでほしいというより、シントピコン使うと、各作品について読み込まずとも、これくらいの文章にいっぺんにアクセスできる、ということを体感してほしい(スクリーンで長文読むの疲れるし)。

 

 なお、原文の傍点やルビなどは省略した。文脈を理解しやすくするための補足などは添えていない(というかそんなもの筆者には書けない)。

 基本的に今回作成した「シントピコン索引」の和訳を基に、参照指示されたページおよび周辺のページを読み、関係のありそうなところをピックアップする形で載せている。文中の「…」は筆者による中略の印である。どこを記載しどこを省略するかは筆者の裁量で決めたが、基本的にここに載っている文章だけで意味が通るような記載の仕方をしていると思う。

 

20教育(Education)

 5c学習の性質:そのいくつかの形態(The nature of learning: its several modes)

「Great Books1」p308

プラトン→「全集1」p204-222

     「全集2」p153-163, 347-364

     「全集4」p170-192

     「全集5」p176-191

     「全集7」p123-132

     「全集11」p463-558

     「世界古典文学全集14」p247-250

アリストテレス→「全集12」(旧)p49-51, 303-307, 308-310

        「全集13」(旧)p216-219 

        「全集2」(新)p281-288, 338-342, 517-523

        「全集4」(新)p356-362, 396-400

        「全集7」(新)p87-92, 272-276, 276-277

アウグスティヌス→「告白 上」p119-122

ホッブズ→「リヴァイアサン1」p39-46

モンテーニュ→「エセ―1」p257-264

       「エセー6」p279-296

ベーコン→「学問の進歩」p213-220

     「ノウム・オルガヌム」p59-66

デカルト→「著作集4」p17-31, 60-86, 61-66

モリエール→「全集1」p329-334

ロック→「人間知性論一」p49-55, 60-66, 128-131

カント→「全集4」p67-72

    「全集5」p27-33

    「全集6」p112-118

    「全集8」p200-204

ミル→「自由論」p70-93

ラボアジエ→「化学の始め」p viii-xi

ヘーゲル→「法の哲学1」p213-216

ニーチェ→「善悪の彼岸」p247-248

トウェイン→「ハックルベリー・フィンの冒険 上」p58-61

デューイ→「経験と教育」p16-41, 61-74, 98-102, 135-141

ウィトゲンシュタイン→「哲学探究」p7-46, 447-450

ウォディントン→「生命の本質」p152-155

ヴェブレン→「有閑階級の理論」p356-360

ウェーバー→「職業としての学問」p20-33

プルタークアウグスティヌス(一部)、ボズウェル、ジェームズ・ウィリアムズ

  

 

アリストテレス→「全集12」p49-51

 さてそれゆえに、誰もみな、自然に関する著述のなかで述べられた諸種の原因を探求しようとしたもののようであり、またそれら以外にはいかなる種類の原因をもわれわれはあげえないということも、上述からして明らかである。しかし上述の人々はその探求が漠然としていて、或る意味ではすでに早くもこれらすべての原因が述べられたと言えるが、或る意味ではどれも一つも述べられなかったとも言える。思うにあの最初の知恵の愛求〔哲学〕は、若くもあり初めてのことでもあったので、なにを語るにも下回りがよくない、たとえばエㇺペドクレスでも、骨は比〔諸元素の混合の割合〕によって存すると言っている。これは、実は、物事のなにであるか〔本質〕の意、すなわちその意味での実体の意なのである。ところで、これら諸元素の一つ一つは比なのではない。だから、肉や骨やその他がそれぞれの構成要素の比なのであって、これら諸元素の一つ一つは比なのではない。だから、肉や骨やその他がそれぞれそのように存するのはその比によってであって、これらのものの質料——これをかれ〔エㇺペドクレス〕は、火と土と水と空気とだと言っているが——によってではないのである。しかし、もし誰かがかれにこの点を明らかに告げたなら、かれもこれに同意したであろうが、かれ自らはそこまで明白には言わなかった。

 さて、これらのことについてはすでにさきにも明らかにされた、しかしふたたび同じこれらのことに立ちかえり、そこに提起されうる多くの難問を数えあげよう。そうすればおそらくこれらか、のちにわれわれの問題を解決するのに役立つなにものかがえられようから。

アリストテレスアリストテレス全集12 形而上学」(旧全集)、岩波書店、P49-50

 

アリストテレス→「全集12」p303-307

 諸々の行為のうち、限りのある行為は、(1)いずれの一つも目的〔終り〕そのものではなくて、すべてその目的に関する者である、…。…ところが、行為〔すくなくも完全な行為〕は、それ自らのうちにその終り〔目的〕を含んでいるところの運動である、たとえば、ひとは、ものを見ているときに同時にまた見ておったのであり、思慮しているときに同時に思慮しておったのであり、思惟しているときに同時にまた思惟していたのである。これに反して、なにかを学習しているときにはいまだそれを学習し終ってはおらず、健康にされつつあるときには健康にされ終ってはいない。…これらの過程のうち、一方は運動と言われ、他方は現実態と言わるべきである。けだし、およそ運動は未完了的である、すなわち、瘠せること、学習すること、歩行すること、建築することなど、すべてそうである。…

 …たとえば、諸属性で述語される当の基体は「人間」であり、「肉体と霊魂」であり、その属性は「教養的なこと」とか「白いこと」とかである。この場合、前者〔基体、たとえば人間〕は、この者のうちに「教養」が生じてきたとき、「教養」であると言われ〔述語され〕ないで、「教養的な」ものであると言われ、またこの人間は「白さ」であるとは言われないで、「白い」ものであると言われる、…

アリストテレスアリストテレス全集12 形而上学」(旧)、岩波書店p303-307

 

アリストテレス→「全集13」p216-219 

第一に考察すべきは、抑制を失って行為する時、ひとはしていることを知っているのか、それとも、知らないのかという問題であり、知っているとすれば、どのような意味においてであるかという問題である。ついで考察すべきは、抑制のないひとや抑制のあるひとがかかわるのはどのような種類の事柄であるとすべきか、すなわち、それはすべての種類の快楽と苦痛であるのか、それとも、或る一定の種類の快楽と苦痛であるのかという問題であり、また、抑制のあるひとと我慢強いひととは同じひとか、それとも、違うひとかという問題である。その他、これらと類縁の、この研究で扱われるかぎりのものについても同じような問題がある。

 考察の出発点は、抑制のあるひとと抑制のないひととの違いは両者がかかわる事柄の違いにあるのか、それとも〔同じ事柄にかかわる〕両者のかかわり方の違いにあるのかという問題である。すなわち、私の言おうとするのは、抑制のないひとはこれこれのことだけにかかわることによって抑制のないひとであるのか、それとも、そうではなく、〔何についてであれ〕或る一定の仕方でかかわることによって抑制のないひとであるのかという問題である。次に考察すべきは、無抑制と抑制は全ての種類の事柄にかかわるのか否かという問題である。というのは、限定ぬきの意味で抑制のないひとがかかわるのはすべての種類の事柄ではなく、ふしだらなひとのかかわるのとまさに同じ事柄であり、しかも、これらの事柄に単にかかわるだけではなく(なぜなら、もし、そうだとすれば、それはふしだらと同一となろう)、或る特定の仕方でかかわることによって抑制のないひとだからである。すなわち、ふしだらなひとは、いつも目前の快を追求すべきであると思いなすことにより、選択することによって動かされるが、抑制のないひとは、追求すべきであるとは思っていないにもかかわらず、そうするのである。

 さて、抑制のないひとが抑制を失うのは、かれがもっている知識に離反することによってではなく、真なる判断に離反することによってであるという点について言えば、どちらにしても当面の議論には何の変りもない。なぜなら、判断をもつひとびとのうちの或るひとびとは躊躇うことなく、自分が明確に知っていると思っているからである。したがって、もしも、判断をもつひとはその確信が弱いから、知識をもっているひとよりもいっそう自分の断定に反して行為するというのが先の主張であるとすれば、知識と判断は何ら変わらないとすべきであろう。なぜなら、或る種のひとびとが自分の判断していることについて抱いている確信は、他のひとびとが知識をもっていることについて抱いている確信に劣らないからである。これはヘラクレイトスが明快に示しているところである。しかしながら(イ)、「知識をもっているという言葉をわれわれは二つの意味で用いるから(すなわち、知識をもっているが現に働かせていないものも、知識をもっていて減に働かせていないものも、知識をもっていると言われる)、してはならないことを心得てはいても、現にそれに目を注いでいないでするのと、現に目を注いでいてするのとでは違いがあるだろう。というのも、後の場合のようなことが起こるとしたら、それは恐ろしいことだと考えられるからである。だが、現に目を注いでいるのでないかぎり、何も恐ろしいことではない。

 さらにまた(ロ)、〔実践的推論における〕前提命題には二種あるのだから、かりに、これを二つとも心得ていたとしても、もしも、一般的な前提〔大前提〕を働かせ、特殊的な前提〔小前提〕を働かせていないとするならば、知識に反する行為が起ることに何の差支えもない。なぜなら、行為されるのは個別のことだからである。また一般者と言ってもそのうちには違いがある。すなわち、或る一般者は自己にかかわり、或る一般者は事物にかかわる。たとえば、「乾燥した食物はすべての人間にとって有益である」という〔一般的な〕前提があって、「自分は人間である」、または、「こういう性質の食物は乾燥した食物である」という〔特殊的な〕前提がある。ただ、かれらは「これがこういう性質の食物である」か否かを心得ていないか、あるいは、心得ていても、それを現実に働かせてはいないのである。さて、これらのあり方における知識の違いは途方もなく大きい。したがって、〔してはならないことを〕一方の意味で知っていたとしてもすこしも奇妙なことではないが、他方の意味で知っているとすれば、それは驚くべきことなのである。

 さらにまた(ハ)、人間には上述のものとは異なる知識のもち方がある。というのは、もってはいても、働かせていないという知識のもち方のうちに、先のものとは違って、何らかの意味で、もっているとも、もっていないとも言える知識のもち方のあることをわれわれは観察しているからである。眠っているひと、気違い、酔っ払いにおける知識のあり方がこれである。ところで、情念にはまりこんだひとはまさにそういう状態に置かれている。というのは、激情や愛欲の欲望やこの種のもののいくつかは肉体の状態さえも目に見えて変化させ、或るひとびとのうちには狂乱さえも生み出すからである。ところで、抑制を失ったひとが知識から生れる言葉を語るという事実は何の証拠にもならない。なぜなら上述の情態にあるひとびとも論証を語ったり、エムペドクレスの詩句を誦えたりするからである(また、学習したばかりのひとでも学問の言葉をつなぎ合わせることはできる。だが、かれらにはまだ何も分かっていないのである。学問が分かるためには、それらの言葉が、いわば、一つの根から出て生い茂るように相互に結び合わなければならないが、そのためには時間を要する)。したがって、役者が台詞を語るのと同じように、抑制を失ったひともそれらの言葉を語るのだとみなすべきである。

 さらにまた(ニ)、次のように考察する時、われわれは抑制を失った行為の生ずる原因を事柄自体の成り立ちにしたがって観察することができるであろう。判断の一つは一般的であり、他の一つは個別にかかわる。個別の認知においては、もとより、感覚が決定的である。これら二つの判断から一つの判断が生れる時、結論されたことを、魂は、或る場合〔すなわち、理論的な論証においては〕必然に肯定せざるをえず、行為にかかわる判断においては直ちに実行せざるをえない。たとえば、すべて甘いものをひとは味わるべきであるとし〔大前提〕、個別に属する一つであるこれが甘いとするなら〔小前提〕、行いうる力をもっているひとは、妨害されないかぎり、同時に、必然に、これを実行せざるをえない。したがって、いま、一方には、〔甘いものを〕味わうことを妨げる一般的な判断がわれわれのうちにあるとし、他方には、「すべて甘いものは快い」とする判断と「これは甘い」という判断があるとする(しかも、この「これは甘い」という判断が現に〔意識されて〕働いている判断とする)、さらに欲望がわれわれのうちにちょうどその時存在するとする——このような時、先の一般的な判断は味わうことを避けるように命ずるが、欲望はひとを引きずってゆく。なぜなら、欲望は個別の各部分を動かす力をもっているからである。したがって、ここに、或る意味では、分別と判断によって抑制を失うという結果が起ってくる。もっとも、この判断はまっとうな分別に反する判断ではあるが、それはそのもの自体としてそうなのでなく、付随する結果としてそうなるのである(というのは、まっとうな分別に相反するものは欲望であって判断ではないから)。したがって、この理由からみても、獣類は抑制のないものであるとは言えない。なぜなら、獣類は一般的な断定をもたず、個別に関わる影像と記憶を持っているだけだからである。

 抑制を失った行為における無知の情態がどのようにして解消し、抑制のないひとがどのようにして再び知識をもつようになるかという説明は、酒に酔ったひとや眠っているひとにも言えることと同じで、この無抑制という情態に固有なことではない。その説明は自然学者から聞くのが相応しい。

 〔行為における〕最終の前提命題は感覚されるものにかかわる判断であって、それが行為を決定するのだから、情念にはまりこんだひとはこの判断をもっていないか、あるいは、もっているとしても、「もっている」という意味は〔先に述べたように〕それを知識としてもっているという意味ではなく、あたかも、酔っ払いがエムペドクレスの詩句を誦するのと同じように、それを言うことができるという意味である。そして、最終の項は一般者ではなく、また一般者と同じように認識されうるものなのでもないと考えられるために、ソクラテスの求めていた帰結が生じてくるように思われる。すなわち、本来の意味で知識と言われるに値すると考えられるものが現存するのに、無抑制の情態が生ずることはない。また、このような意味における知識が情念によって引きずり廻されることもない。抑制を失ったひとにおいてあるのは感覚的な知識なのである。さて、抑制を失って行為するひとがしていることを知っているか知らないかという問題、また、どうして、知っているのに、抑制を失って行為することがありうるのかという問題についてはこれで述べられたとしよう。

アリストテレス「アリストレス全集14 ニコマコス倫理学」(旧)、岩波書店、p215-219

 

アウグスティヌス→「告白 上」p119-122

 二八、わたしが二十歳になろうとするころ、アリストテレスの『十個の範疇』とよばれる書物を手に入れて、それをひとりでよんで理解したが、わたしにとって何の役にたったであろうか。わたしの先生であったカルタゴの弁論家や、そのほか学者と思われていた人たちが、それに言及するごとに、頬をふくらませ、この書の名を挙げたとき、わたしは何かしら偉大なものに対するようにこの書物にあこがれていたのである。わたしはこの書物について友人たちの意見を求めたが、かれらがいうには、もっとも博学な教師たちが口で説明するばかりか、砂の上に多くの図を書いて説明してもらってもほとんど理解できないということであった。またかれらはわたしがただひとで読んで理解したもののほかは、わたしに何もいうことはできなかったこの書物は、実体、たとえば人間、実体に属するもの、たとえば人間の形態、どのような人間であるか、その身長、何フィートであるか、その血族関係、だれの兄弟であるか、またどこに住んでいるか、いつ生まれたか、立っているか、坐っているか、靴をはいているか、武装しているか、何かをしているか、何かをされているかについて、わたしがいま二、三の例を挙げて説明した九つの類(偶有の範疇)について、あるいは実体そのものに属する無数の事柄について、まったく明瞭に語っているようにわたしには思われた。

 二九、このようなことが、わたしにとって何の役にたったであろうか、それはむしろわたしを害したのである。わたしは、存在するものはすべて、あの十個の範疇によって完全に包括されると考えて、わたしの神よ、驚くべき仕方で、単純で不変であるあなたを、あなたがあなたの偉大さと美の基体であるかのように、あなたの偉大と美は物体におけるように基体としてのあなたのうちにあるかのように理解しようとした。しかしじつは、あなた自身があなたの偉大と美なのである。これに反して、物体は物体であるから、大きく美しくあるのではない。物体は大きく美しくなくとも物体であることに変わりはないからである。すなわち、わたしがあなたについて考えたことは、虚偽であって真実ではなく、わたしのあわれなつくりごとであって、あなたの幸福をもたらす確実な認識ではなかった。あなたは大地が茨と薊をわたしのために生じて、わたしが額に汗を流してパンを食べることを命ぜられたが、わたしはこの命令のとおりになった。

 三〇、また、これはわたしにとって何の役にたったであろうか。わたしはその頃邪悪な欲望のもっともあさましい奴隷であったが、自由人にふさわしいといわれる学問へのすべての書物をひとりで読んで、読破したかぎり理解した。わたしはこれらの書物を楽しんだが、それらのうちにある真実で確実なすべてがどこから由来するかを知らなかった。私は光に背を向け、わたしの目を光によって照らされるもののほうに向けていた。それでわたしは照らされたものは目で眺めたが、その眼は照らされなかったのである。わたしが弁論の術について、また幾何と音楽と算術について、なにびとにも教えられることなく、容易に理解したすべてのことは、主よ、わたしの神よ、あなたの知られるとおりである。理解の早いことも、直観の鋭さも、あなたの賜物だからである。しかしわたしは、そのためにあなたに犠牲を捧げなかったが、それはわたしにとって益にならず、むしろ破滅をもたらすものになった。わたしはわたしの財産のこのように貴重な部分を自分の力のうちにおさめようと努めて、わたしの力をあなたのためにとっておかず、あなたにそむいて遠い国に行き、放蕩に財産をつかいはたした。まことに、よい財産も、それをよく用いないわたしにとって、何の役に立ったであろうかそれらの学問はもっとも勤勉で、もっとも才能のある学生でさえ、わたしがかれらに説明しようと試みたとき、なかなか理解できないということに、わたしは気がつかなかった。じっさい、わたしの説明におくれずついてこられた学生は、かれらのうちでもっとも優れた学生であった。

 三一、しかし、このことはわたしにとって何の益があったであろうか。わたしは、主よ、真理であられる神よ、あなたはかがやく巨大な物体であり、わたしはその物体の一片であると考えていた。何とはなはだしい逆転ではないか。しかも、わたしはまさにそのようなものであったが、しかしわたしはいま、神よ、あなたがわたしに示されたあなたのあわれみを告白し、あなたを呼び求めるのを恥じない。わたしは当時人びとの前で、冒瀆の言葉を放言し、あなたに罵言をあびせかけることを恥じなかったのである。それ故、それらの学問を何の苦もなくきわめたわたしの理解力も、何びとにも教えることなしにわたしが説き明かしたこのように難解な書物も、当時のわたしにとって何の益があったであろうか。わたしは、信仰の教説のなかを醜く、瀆神の罪にまみれてさまようていたからである。またわたしよりも、はるかににぶいかれらの理解力もあなたの小さいものにとって何の妨げとなったであろうか。かれらは、あなたから遠ざからないために、あなたの教会の巣のなかで安全に守られ、羽毛がはえ、しっかりした信仰の糧で愛の翼を育てたからである。…

アウグスティヌス「告白 上」岩波文庫p123-126

 

ホッブズ→「リヴァイアサン1」p39-46

 言語の一般的効用は、私たちの内心の話を口頭に、思考の連続を言語の連続に移し変えることである。…名前の第一の効用は、回想のための「符号」(マーク)または「記号」(ノート)として役立つことにある。

 他の効用は、多くの者が同じ語群を用いるとき〔その関連と順列によって〕あることがらについて自分が何を思い、考えているか、また何を意欲し、恐れ、またその他のどんな感情をいだいているかを相互に知らせることである。そしてこの効用のためにことばは「しるし」(サイン)と呼ばれる。

 言語の特殊な効用は次のとおりである。第一は、つぎのことの記録である。思考作用によって私たちは現在あるいは過去のなにごとかについて何が原因かを発見する。また、現在または過去のことがらが何を生みだし結果するかを発見する。これらのことがらを記録すること、すなわち、要するに学問の獲得である。第二は、自分の得た知識を他人に知らせること、すなわち、相互に助言し教えることである。…

 意味の大小の広がり、厳密さはともかくとして、こうして名称を付与することによって、私たちは、心のなかで想像されることがらの帰結の計算を名称の帰結にかんする計算に転化する。たとえば、言語能力のまったくない者〔先天的に完全な聾唖でいまなおそうである者など〕が、もしも自分の目の前に三角形を置き、そのそばに〔たとえば正方形の隅のような〕二つの直角があるのを見るならば、彼は深く考え、比較することによって、三角形の三つの角はかたわらにある二つの直角に等しいことに気づくであろう。しかし、彼の眼前に、以前とは異なる形の三角形が示された時、新たな努力をくり返すことなしに同じであるとは、知ることができない。

 これにたいしてことばを用いる者は、もしもこの等しさは三角形の辺の長さ、その他の特殊な事実の結果ではなく、ただ辺が直線であり角が三つあればそれだけで三角形と名づけることを知っていれば、彼は大胆につぎのように普遍的な結論をくだす。すなわち、角のこうした等しさは形のいかんにかかわらず、すべての三角形に存在する。そして彼はこの発見を「すべての三角形は二直角に等しい三つの角を持つ」という一般的なことばで記録するであろう。

 このようにして一つの個別において見出された帰結は、一つの普遍的法則として記録され記憶される。そしてわれわれの心の計算から時と場所を取り除き、最初の計算以外の全ての心の労働から我々を解放する。そして「いま」「ここで」真理として発見されたことを「すべての時」「すべての場所」における心理とする。…

 二つの名称が結び合わされて帰結または断定となるとき、たとえば「人間は生物である」とか「もしも彼が人間ならば彼は生物である」というばあい、もしも「生物」というあとの名称がまえの名称「人間」が意味するすべてを意味するならば、この断定あるいは帰結は「真」である。もしそうでなければ「偽」である。なぜなら「真」あるいは「偽」は、事物ではなく言語(スピーチ)の属性であり、言語のないところには「真」も「偽」もないからである。…

 「真理」とは私たちが断定を行うさいに名称を正しく並べることである。故にこのことを知るならば、正確な「真理」を探究する者は自分の用いるすべての名称が何を表すかを記憶し、それに従って正しく配置しなければならない。もしさもないと鳥もちにかかった鳥同様、ことばのわなに巻きこまれてしまい、もがけばもがくほどことばにとらえられる。そのため〔神が人類に与えたもうた唯一の学問(サイエンス)である〕幾何学においては、ことばの意味を定めることからはじめるのである。意味を定めることを人は「定義」と呼び、計算のはじめに置く。

 このことからしても、真の知識にあこがれる者にとって過去の著作者たちの定義を検討し、もしもいい加減なものであるばあいにはこれを訂正し、自身で定義を与えることがどれほど必要かが明らかになる。定義に誤りがあれば計算が進むにつれてその誤謬は増加し、まったくばかげたことになるからである。最後にそれに気づいたとしても、はじめから計算し直さなければ、誤謬を取り除くことはできない。なぜなら端緒に誤謬の根があるからである。

 したがって書物を信用しきっている者はいわば多くの小さな数を集計するとき、その元の数が正しく産出されたかどうかに考慮を払わぬ者と同じである。最後に誤謬が明らかになっても、最初の基礎となった数に不信をいだかないためにどのように解明すべきかを知らず、ただやたらに本をひっくり返して時間を費やす。まるで煙突から入ってきた小鳥が部屋に閉じ込められたことに気づき、しかもどこから入ってきたか考えるだけの知恵がないために窓の明りにだまされてガラスに体をぶつけるようなものである。

 したがって言語(スピーチ)の最初の効用は、名称の正しい定義にある。それこそが学問(サイエンス)の獲得である。名称についての誤った定義と無定義とに、ことばの最初の誤用があり、そこからすべての虚偽、あるいは無意味な教説が生じる。そしてこれが自分自身の熟考によらず、書物の権威に教えをあおぐ人々を無知な人々以下の状態におとしめる。すなわち、真の学問をつんだ者が高められるだけ彼らは逆に低められるのである。なぜなら、真の学問と誤りの教義の中間に無知があるからである。

 自然生来の感覚と想像力は不条理に陥ることはない。自分自身は誤ることはありえないそれにたいして人間はおびただしい言語を持っているために、その分だけより賢くもなり、あるいは狂いもする。また文字がなければ、いかなる人もとりわけ賢明になることも、とりわけ愚かになることもありえない。〔もちろん、病気や器官の故障のため記憶力がそこなわれたばあいは例外である。〕なぜなら言葉は賢者の計算機であり、彼らはただことばによって計算しているにすぎない。ところがその同じことばが愚者にとっては貨幣であり、彼らはアリストテレスキケロ、トマス(・アクィナス)のごとき、あるいは博士と名のつく人ならだれでもかまわない、そうした人々の権威によってことばを価値づける。

ホッブズリヴァイアサンⅠ」永井道雄他訳、中公クラシックス、p39-46

 

モンテーニュ→「エセー1」p257-264

 …小熊や子犬は、その生来の気質を現すのです。ところが人間というのは、すぐさま、習慣や、思想や、法律のなかに放りこまれますから、たやすく変わって、変装してしまうものなのです。

 さりとて、生来の傾向を力づくで変えるのも困難です。…こうした困難さをともなうものではありますが、わたしの考えはといいますと、子供たちをいつでも、最高の、もっともためになるものごとに向かわせること、そして、幼年自体のさまざまな動きから引き出した、浅薄なる予見やら予測に、あまりこだわってはならないということなのです。…

 …学問というものは、すばらしく役立つ道具なのでもあります。…学問というものは、弁証法の議論を組み立てたり、控訴審で弁論をしたり、丸薬の分量を処方したりするより、むしろ戦争を指揮したり、人々に指図をしたり、君主や外国の国民の友情を獲得したりすることに力量を発揮する方が、よほど誇らしいのです。…

 …りっぱな家柄の子供が、文芸にいそしむのは、金銭のためでもありませんし、…、世間的な利益のためでもなく、自分自身のため、自分を豊かにして、その内面を飾るためであって、学識ある人間というよりも、知性・判断力のある人間となることをめざしているのです。ですから、子供の導き手としては、いっぱい詰まった頭よりは、むしろ、よくできた頭の持ち主を選ぶように、心がけたいものですし、また、その教師には、両方とも求めたいところとはいえ、それでも、学識より、むしろ人となりや知性を重視してほしいのです。…

 とかく教師は、まるでじょうごに水かなにかを流し込むみたいに、耳元でたえずがなりたてて、生徒の仕事といえば、いわれたことを反復するだけになっています。…教師が勝手に考えて、話すのはだめで、生徒のいうことを聞いてやる側にまわるのが望ましいのです。

 ソクラテスも、その後のアルケシラオスも、まず弟子たちに話をさせておいてから、今度は自分が、話をしたのです。《学ぼうとする者にとっては、往々にして、教える者の権威が妨げとなる》(キケロ『神の本性について』一の五の一〇)のであります。…

 …さまざまな能力や形態を備えた多くの精神を、単なる習慣で、同じ授業、似たような指導法によって教育しようとするならば、なんらかのまともな教育成果を引き出せるのが、生徒全体のうちでせいぜい二、三人だとしても、別に不思議でもなんでもないわけです。

 教師は授業の際に、そこに出てくる単語のことだけでなく、その意味や実体についても説明を求めるべきです。また、生徒がどれだけ覚えたかではなく、その生活を証拠として、その成果を判断する必要があります。習ったばかりのことを、さまざまの視点で考えさせて、それと同じぐらいに多様な主題について適用させることで、生徒がしっかり把握して、自分のものとしているのかを、…、子供の進歩の具合を探りながら、確かめていくのです。…消化すべきものとして与えられたものの、形状が変化していないということは、胃がその機能を果たしていないわけです。

 そんな場合、われわれの精神は、他人に乗っかって、動いているだけなのです。——他人があれこれ考えた腹づもりに結びつけられ、束縛されて、その教えという権威に囚われて、従っているにすぎません。手綱でがっちりとつながれていて、自由に歩けなくなっているのであり、われわれの力強さや自由は消えてしまったのです。《彼らはけっして、自分自身の後見をすることがない》(セネカ『書簡集』三三の一〇)のであります。

 …教師は、生徒に、すべてを篩にかけさせて、なにごとも、単なる権威や信用だけで、頭のなかに宿すことのないようにする必要があります。…多種多様な判断を提示してあげることで、選べるものなら、本人が選ぶでしょうし、そうでなければ、懐疑のうちにとどまるはずです。

 知ることに劣らず、疑うことも、私にはありがたいのだ。(原文イタリア語。ダンテ『新曲』「地獄篇」一一の九三)

 というのも、生徒が、自分の判断でクセノフォンやプラトンの考えを採用するならば、それはもはやクセノフォンやプラトンのものではなく、彼自身のものなのです。他人に付きしたがうだけの者は、なににも付きしたがってはいないのです。なにも見いだしませんし、そもそも、なにも求めていないのです。…彼らの教えを学ぶというよりも、その考え方や感じ方を自分の内に浸透させなくてはいけません。そのつもりならば、それをどこからいただいたのかなど、思いきって、忘れてしまってかまわないのです。とにかく、それをわがものにしてしまうことです。真理や理性は、万人に共同のものであり、それを最初にいった人のものでも、あとからいった人のものでもないのです。…彼も、他人から借りてきた部分部分を変形して、混ぜ合わせ、それでもって、まったく彼のものである製作物、つまり判断力を作り上げるのです。教育も、勉強や学習も、この判断力を形成することを目標としています。

 彼が、助けを受けた部分はすべて隠してしまい、それにより作り出したものだけを示すようにしましょう。…われわれが勉学することのメリットとは、それによって、よりよい人間に、より賢い人間になることなのです。

 エピカルモスが、次のようなことを述べています。「見たり聞いたりするのは、知力だ。すべてに利益をもたらし、案配し、行動し、支配・君臨するのは知力なのだ。それ以外のすべては目も見えず、耳も聞こえず、魂もない」と。なるほど、われわれは知力に、自分で好きなようになにかをさせてやらないために、それを卑屈で臆病なものにしてしまっているようです。…

 暗記しておぼえているのは、知っていることにはなりません。それは、もらったものを、記憶のなかに保存してあるにすぎません。正しく知っていることならば、お手本を見なくても、書物に目をやらなくても、自由自在に使いこなせます。もっぱら書物にたよった知識力とは、なんとなさけない知識力であることか! 私は書物による知識が装飾となることを願ってはいますが、それを土台にとは思っていないのです。それはプラトンの考え方を踏襲したもので、プラトンは、揺るぎのなさ、信念、誠実さこそ、本当の哲学であって、ほかのことをめざす、それ以外の学問は虚飾でしかないと述べたわけです。

 パルヴェッロやポンペオなど、われわれの時代には、すばらしい舞踏家がいたわけですが、できるというなら、こっちが座っている場所から動かないで、そのダンスを見ているだけでもって、カブリオールかなんかを教えてもらえばよかったのです——いまどきの教師連中が、揺さぶることもしないで、われわれの判断力を教育しようなどと思っているみたいに。また、乗馬や、槍や、リュートや、声楽を、実地にやらせないで教えられるというなら、やってみてほしいものです——先生方が、実際の訓練などせずに、しっかり判決をくだしたり、うまく話したりすることを教授しているように、いいですか、この修行においては、目の前に現れたすべてのものごとが、りっぱに書物の役目を果たすのです。小姓たちのいじわる、召使いの愚かさかげん、食卓でのおしゃべり、どれもこれもが、新しい材料となるのですから。

 こうした次第ですから、人々との交際などは、非常に目的にかなっているのです。また外国を訪ねるのも、よろしいかと。…知識を持ち帰るのが目的ではありません。なによりも、そうした国民の気質や習慣をしっかりと見て、自分の脳みそを、そうした他者の脳みそと擦りあわせて、みがくためなのです。…

モンテーニュ「エセー1」宮下志朗訳、白水社、p257-264

 

カント→「全集8」p200-204

 天才は模倣精神とまったく対立すべきであるという点では、あらゆるひとが一致している。ところで、学ぶとは模倣することに他ならないのであるから、どれだけ偉大な能力であっても、理解力(受容力)は理解力であるかぎり、やはり天才とみなされることはできない。しかし、またひとが自分で考え創作して、他のひとが考えたものをたんに把握するだけでなく、さらに技術や学のために多くを発見するとしても、それでもこのことはまた、この(しばしば偉大な)頭脳を(そのひとはたんに学び模倣する以上にはまったくなにもできないのであるから、愚かものと呼ばれるが、これとは反対に)天才と呼ぶ正当な理由とはならない。なぜなら、まさにこうしたことも、〔学びさえすれば〕学ばれることはできただろうからであり、それゆえやはり諸規則にしたがう探求と精察という自然な方途上にあり、模倣を介した勤勉によって獲得されうるものと種別的に区別されないからである。そこで、ニュートンが自然哲学の諸原理に関するかれの不滅の著書の中で述べたすべては、これらの原理を発見するためにどれだけ偉大な頭脳が必要であったとしても、十分学ぶことができる。しかし、詩芸術のためのあらゆる指令はどれほど詳細であろうとも、その模範はどれほど優れていようとも、才気煥発に詩作することは学ぶことができない。その理由はこうである。ニュートンは、幾何学の初歩の諸原理からかれの偉大で深遠な発見にいたるまでたどらなければならなかったすべてのかれの歩みを、自分自身に対してだけでなく、他のあらゆるひとに対してもきわめて具体的に継承しうるよう明確に示すことができた。ところがホメロスやヴィーラントのようなひとは、自分の想像に富みしかも同時に思想に満ちあふれた諸理念がどのようにして自分の頭脳に浮かびまとまるかを示すことはできない。かれ自身はこのことを知らず、それゆえ他の誰にも教えることができないからである。それゆえ、諸学のうちではどんなに偉大な発見者でも、辛苦をきわめた模倣者や弟子とは程度上区別されるにすぎないが、これに反して、自然が芸術のために天与の資質を与えたひととは、種別的に区別される。とはいえこれによって、人類がこの多大な恩恵を受けてきたあの偉大なひとびとは、美術のための才能に関する自然の寵児たちと比較して低く評価されるわけではない。あの〔学の〕才能が形成されたのは、認識と認識に依存するすべての利益との完全性に向かって絶えず進歩増大するためであり、それと同時に、同じ知識を他のひとびとに教えるためであるというこの点にこそ、この才能をもつひとびとが天才と呼ばれる名誉に値するひとびとに対して優れている大きな長所がある。なぜなら天才にとって技術はどこかで停止するからであり、それというのも、技術にはある限界が置かれており、技術はこの限界を超えてさらに進むことはできず、この限界はおそらくすでに久しい過去に到達されて、もはや拡張することはできないからである。さらにこうした熟練は伝達されることはできず、自然の手から直接に各人に授けられるものであって、それゆえ、そのひとともに滅びるが、いつかまた自然が別のひとに同様の天与の資質を与えるまで待たなければならない。この別のひとも、自分が意識している才能を類似した仕方で発揮するためには、実例以上のものを必要とはしないのである。

 天与の資質が技術(美術としての)に規則を与えなければならないとすれば、この規則はどのような種類の規則であろうか。それは、方式にまとめあげられて、指令として役立つことはできない。というのも、もしもそうすることができるとすれば、美しいものについての判断は諸観念にしたがって規定されうるだろうからである。むしろこの規則は、〔天才の〕所業から、すなわち産物から抽き出されなければならないのであり、他のひとびとは、この産物を手がかりとして自分自身の才能を吟味することができる。その場合、この産物を模倣の規範としてではなく、継承の規範として役立たせるためである。これがどのようにして可能であるかは、説明するのは困難である。芸術家の諸理念は、自然がかれの弟子に心の諸力のルイジした釣り合いを与える場合に、かれの弟子に類似した諸理念を喚起する。したがって美術の模範は、美術を後代に伝承する唯一の伝導手段である。このことは、たんなる記述によって行われることはできないであろう(とりわけ言語芸術の分野では不可能である)。また言語芸術の分野でも、すでに死語となり現在学術語としてのみ保存されている古代語で書かれた模範だけが、古典的となりうるのである。

 機械的技術と美術とは、機械的技術が勤勉と学習のたんなる技術として、美術は天才の技術として、互いにきわめて異なっているとはいえ、それでも諸規則にしたがって把握され遵守されうるある機械的なもの、それゆえある教則にかなったものが、技術の本質的条件を形成していないような美術は存在しない。というのも、技術の場合には、なにかが目的として考えられなければならず、そうでなければ、技術の産物は、まったく技術に帰せられることができないからであり、そのときには、それは偶然のたんなる産物にすぎないであろう。しかし、ある目的を実現するためには規定された諸規則が必要であり、これらの規則から免れることは許されない。ところで、才能の独創性は天才の性格の一つの(唯一の要件ではないが)本質的要件をなすのであるから、浅薄な頭脳の持ち主たちは、自分たちが輝かしい天才であることを示すには、かれらがあらゆる規則の訓練の強制をかなぐり棄てるよりうまいやり方はないと信じ、自分たちを誇示するには調教された馬に乗るよりも、凶暴な馬に乗る方がよい、と信じている。しかし天才は、美術の所産物に対して豊富な素材を提供できるだけである。この素材の加工と形式とは、判断力の吟味に耐えるようにその素材を使用するために、訓練によって陶冶された才能を必要とする。しかし、あるひとがきわめて入念に理性の探究に関する事柄ですら、まるで天才のように語り断定するとすれば、それはまったく笑うべきことである。奇術師は、自分の周囲に煙霧を張りめぐらして、そこではなに一つ判明に断定できないかわりに、それだけいっそう想像をたくましくさせる。公衆は、自分が洞察の傑作を判明に認識し把握することができないのは、たくさんの新しい真理が自分に投げ与えられているのに、その細部(諸原則の精確な説明と教則にかなった吟味とによる)は、駄作にすぎないようにみえるためである、と心から思い込んでいる。ひとは、そのような奇術師の方を笑うべきか、それともむしろ、こうした公衆の方を笑うべきか正しく知ることがないのである。

カント「カント全集8 判断力批判 上」岩波文庫、P200-204

 

ラボアジエ→「化学のはじめ」pviii-xi

 われわれは、わかったものから未知のものへと学ぶことでしか進んでいけないということは、不変の原理である。これはあらゆる種類の知識と同じように、数学の中で認められている一般性である。年数の少ない幼児ではアイデアは欲望からきている。幼児の欲望の感覚は、満足感を満たす目的のアイデアを生む。そして、感覚、観察と分析によってしらずしらずのうちに、すべてのアイデアが積みかさなった末、連結した一般的アイデアが形成される。それゆえ、注意深い観察者はわれわれが知っていることとつながっているある点、すなわち脈絡、連けいを見いだすことができるのである。

 われわれが最初に科学を学ぶときは、幼児がアイデアに対している状態にたいそう似ている。そして、自然がそのアイデアを形成してくれた方針に、忠実に従うような方針を科学に対してもつべきである。幼児において、アイデアは感覚の作用であり、アイデアを生むのは感覚であることは、物理科学の研究を学び始めるものにとっても同じことである。科学者のアイデアは、実験と観察の結果と、それらの密接な関連に基づいていなければならない。

 科学の職業にはいろうとするものは、幼児が最初のアイデアを得るよりも、不利な立場にあるといわざるをえない。もし、幼児が、取り囲むものの有益、または有害な作業に対して勘違いしたとすると、自然は幼児にそれを正しく改める多様な方法を与えてくれる。そのたびごとに、彼がもった判断はこの経験によって矯正される。間違った判断の後には、欠乏と苦痛が、正しい判断の後には歓喜と快感がもたらされるのである。教師のようなもとでは、幼児はすぐ合理的になる。幼児は欠乏または忍従の苦しさの下から他に解き放たされれば、たちまち合理的になる。

 科学を学ぶこととその実際においては、これと同じではない。われわれが誤ってした判断は、われわれの存在にも、幸福にも関係がない。なんらかの肉体的利害もわれわれの考えを正しくなおしてはくれない。逆に、たえずわれわれを真理の外にとどめさせようとする想像、心のうちの自負心と大胆さは、真実をただちに導きだすことをしない結果に引き止めておくということにかりたてる。それゆえ、われわれは、自らを誘惑する各種の形のものをもっていることになる。だから、一般に物理科学の中で、しばしば結論するかわりに、仮定をとっていたのは驚くに足らないことである。この仮定は代々と伝わり、それが獲得した権威の重みで、次第に重要視され、逆に受け入れられ、全能の神によってさえも、根本的真理とされるのである。

 この誤りを防ぐただ一つの方法は、われわれを迷わすものを、できるだけ合理性から削除すること、すなわち単純化することである。

 いつも、実験による証明をし、自然が与えた事実だけを取りあげれば、何ものもわれわれを迷わさない。また、数学が与えられたことを簡明に整理して現実の問題の解決をするのと同じで、実験と観察の自然な関連において事実を研究するならば、何ものもわれわれを誤らせない。この合理性は実験をごく単純にし、判断をごく簡明にするから、これらによって導かれる明解な見解が見失われることがなくなる。

 一つの真実が認められると、私はこれに規則を課してきた。それは、知られていることから、知られていないことにおよんだものであること、実験と観察からだけ直接導かれる結果を演繹したものであること、そして、初心者にも容易に理解できるような最も適切な型に、化学のことがらと真実を結びつけるということである。このプランに従うことは不可能であるようだ。私には、普通のやり方から離れられなかった。実際、化学のすべての課程と学習において、学生または読者は、根本的ことがらをつぎつぎと続いた各課においてだけ学びとるべきであると考えるのは、共通した誤りである。まったく定義されていない表現を使い、また科学は教授しようとするものだけに修得されるべきものと考えて、最初の年には、化学の主要な現象を調べるということをしないで、なによりもまず、物体の元素principesを取扱い親和力表を説明することから始める。また、化学のはじめの1年は用語に親しみ、装置に見なれることで十分であり、少なくとも3,4年で化学者を養成するのは全く不可能であることは認められているだろうか。

 この不便さは、ものの性質を教える形にするともっと少なくなる。これが化学に最も自然にかなった進歩を与えることとなったのである。これにも私を生涯に落とし込ますというような種類の困難さは、避けられなかったといわざるをえない。この障害は、到底克服できるものではなかった。しかし、これは、化学がまだ不完全な状態にあるからそうであるので、それが、私の意図する秩序にまったく従わないものであるとは思わない。いまの科学には、事実の関連をさえぎったり、また一連の障害と困難を強いている多くの欠陥がある。それは初等幾何学のように、すべての部分が互いに関連をもち、完全な科学であるという利点をもっていない。しかし、一方でその実際の進歩はすこぶる速い。事実は、われわれの代には、望みうる最高度の完全さに近いと考えられる最近の原理の中に、優れた方針に従って配列されるであろう。

ラボアジエ「化学のはじめ 増補訂正版」内田老鶴圃新社、p viii-xi

 

ヘーゲル→「法の哲学」p213-216

 もろもろの学問と芸術の、たんに消極的な、だが何より第一の奨励は、それらにたずさわる人たちを盗みの危険からまもり、彼らにその所有の保護を与えることである。…

 それにしても精神の産物は、他の諸個人によって把握されて、彼らの表象、記憶、思惟等々に、自分のものとされるという定めをもっている。そして彼らは、彼らが学んだもの〔いったい、学ぶとはただ記憶でもっていろいろの言葉を暗記することだけをいうのではない。——他人の思想はただ思惟によってのみ把握されうるのであって、この、あとにならって思惟することもまた学ぶことである〕をもまた同じように、彼らの外にあらわす表現によって外に譲渡しうる物件にする。そういうわけでこの彼らの外にあらわす表現は、いつでもなんらかの独特な形式をもちやすい。したがって彼らは、そのような表現から生じる資産を自分の所有と見なしうるし、その独特の形式ということからそのような生産の権利を自分のために主張しうるのである。

 総じて諸学問の伝播は、ことに、はっきりきまった教える仕事はその使命と義務からいってそうであり、そして実証的な諸学、教会の教え、法律学等々において最もはっきりとそうであるように、確定された、総じてもう外にあらわされた、外から受け入れられた、思想の繰り返しである。したがってまた、この教える仕事や諸学問の伝播普及を目的としている著作においても、その通りである。

ヘーゲル「法の哲学Ⅰ」藤野渉他訳、中公クラシックス、p216-217

 

ニーチェ→「善悪の彼岸」p247-248

 学ぶということはわれわれを変化させる。それはすべての養分と同じことをする。養分もまた単に「維持する」だけではない。——これは生理学者の知る通りである。しかし、われわれの根底には、全く「その下部には」、もとより或る教えられえないもの、花崗岩のような精神的宿命、予め定められ選び出された問いに対する予め定められた決断と解答とが存在する。あらゆる主要な問題にあっては、「私はそれである」という変えがたいものが発言する。例えば男と女については一思想家は学び直すことができず、むしろただ学び尽くすことができるだけであり、——ただそれについて彼のうちに「確立して」いることを窮極まで発見し尽くすだけである。人々は時機を逸せず問題の或る解決を見出し、それを全くわれわれに強く信じさせることがある。恐らく、それはその後は彼の「確信」と呼ばれるであろう。後になると——これらの確信のうちにただ自己認識への足跡を、われわれがそれであるところの問題への足跡を、——もっと正しく言えば、われわれがそれであるところの大愚への、われわれの精神的宿命の、全く「その下部に」ある教えられえないものへの足跡を見出すだけである。——私がいましも私自身に対して取ったこの著しく慇懃な態度の故に、恐らく、「女自体」について若干の真理を吐露することを必ずや私に許していただけるだろう。もっとも、それがまさしくただ——私の真理であるにすぎないということを今や前もって知っていて下さるとしてのことだが。——

ニーチェ善悪の彼岸」木場深定、岩波文庫p247-248

 

トウェイン→「ハックルベリー・フィンの冒険 上」p58-61

 それから三、四カ月が過ぎて、すっかり冬になった。おいらはほとんどの日は学校に行って、言葉のつづりや字の読み書きがちっとはできるようになった。九九も、ロク・シチ・サンジュウゴってとこまではできるようになったけど、そっから先は永遠に生きてたってできるようにゃならねえだろうな。どっちにしろ、算数には興味ねえし。

 最初、おいら、学校なんかだいっきらいだった。けど、だんだんそのうちに、がまんできるようになった。どうしようもねえぐらい退屈になったときは、学校をさぼった。で、次の日に罰で尻をたたかられると、さっぱりして気が晴れた。そんなわけで、学校に長く通っているうちに楽になってきた。未亡人のやり方にもだんだん慣れてきて、むこうもおいらにあんまりうるさく言わなくなった。家ん中で暮らしてベッドでねむったりすんのはきゅうくつだらけだったけど、外が寒くなる前は、ときどき家から抜け出して森ん中で眠ったりしてたし、それで息抜きができた。昔のまんまがいちばん良かったけど、新しい暮らしも少しは好きになってきた。未亡人は、おいらは時間はかかるけど確実に良くなってるし、すごくがんばってる、って言った。おいらのことを恥ずかしいなんて思ってないって言った。

 

トウェイン「ハックルベリー・フィンの冒険 上」土屋京子訳、光文社古典新訳文庫、p58-63

 

デューイ→「経験と教育」p98-102

 …外的な自由が増大するにつれて、そこに潜在的にみられる利点について論じよう。第一に外面的な自由が増大するという現象がなければ、教師は実際問題として、自分が扱っている個々の生徒についての知識を得ることはできないのである。強要された静粛や黙従というものは、生徒たちが自分たちの真の本性を明示するのを妨げることになる。そこで生徒たちは、人為的な画一性をみせることが強いられるのである。このように強要された生徒たちは、ありのままの存在としてではなく、そのまえに見せかけで繕うことになる。生徒たちは、気配りや礼儀正しさや服従という外的見せかけを保持するためにプレミアムをつけたりする。このような強要的なシステムが優勢である学校状況に精通している人なら誰でもが、この見せかけの背後で生徒たちが考えること、想像すること、願望を立てること、さてはずる賢い活動までが、それおれ身勝手な進路をとっていることを熟知しているのである。そのようなことは、見せかけの背後にあるぶざまな行為が看破られたときにのみ、はじめて教師の前に露呈されるのである。このように非常に人為的な状況を、教室外でみられる正常な人間関係、たとえばよき家族での人間関係と対照してみるだけで、つぎのようなことを知るべきである。そのことは、教育されているものと想定されている個々の生徒についての教師の知識と理解が、どんなにか致命的なものであるか、事の重大さを察知すべきであるということである。しかし、教師にこのような洞察がなくても、授業に用いられた教材と方法が、ある生徒個人にとって極めて適切なものに感じられ、その生徒の精神や性格の発達を実際に促しているというのであれば、それはまったくの偶然のなせる業にすぎないということになる。そこには悪循環がみられるのである。教科と方法の機械的な画一性は、一種の画一的な固定性を生み出すだけである。このことが教科とその復誦という画一性を永続化するという反作用をもたらすことになる。ところが、他方、この強制的な画一性の目に見えない背後では、個々の生徒は規則に反するような方向で、また多かれ少なかれ禁止されているやり方で行動しているのである。

 外面的な自由度が増大していくいま一つの重要な利点は、まさに学習過程の本質それ自体のなかに見いだされる。学習における受容性や受動性にプレミアムをつけるような古い教育方法については、すでに指摘しておいた。身体的に無活動な状態は、そういった古い教育方法の特性に対して、とてつもない大きなプレミアムをつけるのである。標準的な学校でそのようなやり方から逃れる唯一の途は、不規律な、おそらくは不従順な態度で学習活動をすればよいということになる。実験室や作業場では、完全な静寂はありえない。伝統的学校にみられる非社会的性格は、その種の学校が、静かにすることを基本的な徳の一つに挙げているという事実にみられる。もちろん、明らかに身体的な活動を伴わない強度の知的活動といったものもある。しかし、このような知的活動の能力は、それが長期にわたって継続されている場合には、比較的遅くなってから表われてくるものである。年少者にとってさえも、静かに反省するため、しばし合間の時間が必要である。しかし、この短い合間が、見た目に一段と明らかな活動に費やされた時間の後に続くとき、またこの短い合間が、頭脳のほかに手や身体の他の部分が使われるさいの活動の期間に獲得されたものを組織立てるために用いられるときにのみ、この合間が本物の反省の期間になるのである。運動の自由もまた、正常な身体的・精神的健康の手段として重要である。われわれは、今日なお、健全な身体と健全な精神との間の関係を明確に示したギリシア人の例から学ばなければならない。しかし、これまで述べてきたことすべての点からみて、外面的行動の自由とは、入念に選び出された目的を実施するさいに求められる判断や能力が自由に行使されるということである。外面的な自由度の分量は、個々人によって異なる。この種の自由は、成熟度が増すにつれて、自然に減少する傾向をみせる。とはいえ、その種の自由がまったく欠如してしまっては、個人が自分の知性それ自体をはたらかせるに必要とされる新しい教材との接触が、絶たれてしまうことになる。成長の手段としてのこの種の自由活動の量と質とは、発達の全ての段階において、教育者が携わらなければならない思索上の問題である。

デューイ「教育と社会」講談社学術文庫、p98-102

 

ウィトゲンシュタイン→「哲学探究」p447-450

 「しかし数学的真理は、人間がそれを認識するかしないかには関係がないよね!」——たしかにそうだ。「その人たちは2×2=4だと信じている」という命題は、「2×2=4」という命題と同じ意味ではない。後者は数学の命題だが、前者は、もしも意味があるとしたら、「その人たちが数学の命題を思いついた」といった意味になるだろう。ふたつの命題の使い方はまったく違う。——【長いダーシ】しかし、では、「すべての人が2×2は5だと信じていても、やはり4なのだ」という命題の場合は、どういう意味になるのだろう?——私に想像できるのは、「その人たちには別の計算があるのだ」とか、「私たちなら『計算する』とは呼ばないようなテクニックを持っているのだ」くらいだろう。しかしそれはまちがっているのだろうか?(戴冠式はまちがっているか? 私たちとは異なる生き物には、きわめて奇妙に思われるかもしれないのだ)【*348】

 

 数学はもちろん、ある意味では理論である。——けれどもまた、行為でもある。だから「まちがった動き」は例外としてのみ存在する。というのも、「まちがった動き」と呼ばれるものがルールになったりすれば。まちがった動きのあるゲームは廃棄されていることになるだろうから。【*349】

 

 「ぼくらはみんな、おなじ九九を習っている」。これは学校の算数の授業についてのコメントかもしれない。——けれども九九の概念についての確認でもあるだろう。(「競馬では馬は一般に、できるだけ速く走る)【*350】

 

 色覚異常というものがあり、それを確認する手段がある。正常と判定された人が色の名前を言う場合、一般には完全な一致が支配的だ。それが、色の名前を言うという概念の特徴である。【*351】

 

 感情のあらわれが本物かどうか、を問題にするとき、完全な一致は一般には存在しない。【*352】

 

 彼がうわべを装っていることを、私はたしかに確信している。だが第三者は確信していない。私はその第三者をいつでも納得させることができるだろうか? できないなら、第三者のほうが考えそこなっているか、確認しそこなっているのだろうか?【*353】

 

 「なんにもわかっちゃいないね!」——私たちが明らかに本物だと思っていることに、疑いをいだく人には、こんなふうに言うわけだが——私たちはなにも証明することができない【*354】

 

 感情表現が本物であるかどうかについて、「専門家の」判断というものがあるだろうか?——「よりよい」判断ができる人と、「よりまずい」判断をする人がいる。

 人間をよりよく知っている人の判断からは、一般に、より適切な予測が生まれる。

 人間を知るということは学ぶことができるか? できる。できる人もいる。なにかのコースを受講してではなく、「経験」をとおして学ぶのである。——その場合、誰かが先生になることができるか? もちろんできる。先生は生徒にときどき適切なヒントをあたえればいい。——【長いダーシ】こんな具合なのが、この場合の「教える」と「学ぶ」なのだ。——【長いダーシ】習得するのは、テクニックではない。適切な判断を学ぶのだ。ルールもあるが、システムにはなっていない。経験を積んだ者だけがルールを適切に使うことができる。計算のルールとはちがう。【*355】

 

 この場合もっともむずかしいのは、不確定なものを歪めることなく適切に表現することだ。【*356】

 

 「表現が本物であることは証明できない。感じるしかない」。——たしかにそうだ。——【長いダーシ】だが、本物だとわかってから、どういうことが起きるのだろうか? ある人が、「ほら、これが本当に惚れた人間の言いそうなことだ」と言うとしよう。——そしてその人が別の人にもそういうふうに思わせたとしよう。——すると、それからどういうことになるだろうか? あるいは、なにも起きないのだろうか? そしてそのゲームは、その人が別の人の味わえないことを味わうということで終わるのだろうか?

 たしかにいろんな結果になるだろう。だがそれらの結果の性質は、拡散している。経験が、つまり多様な観察が、それらについて教えてくれる可能性はある。だがそれらを一般化した定式としてあらわすことはできない。ばらばらのケースにおいて個別に、実りある適切な判断をし、実りある関連を確認することしかできない。もっとも一般的なコメントであっても、せいぜいのところ、システムの断片らしきものについて語ることができるだけだ。【*357】

 

 ある人はこれこれの心の状態であり、たとえば、うわべを装っているのではない。たしかに私たちそのことを証拠をとおして確信することができる。けれどもこの場合、「測ることのできない」証拠もあるのだ。【*358】

 

 問題は、測ることのできない証拠がどういう仕事をしているのか、ということだ。

 ある物質の化学構造(これは内的なものだ)について、測ることのできない証拠があると考えてみよう。測ることのできないその証拠は、しかしそれでも、測ることのできるなんらかの効果をとおして証拠だと証明されるしかないだろう。

 (測ることのできない証拠が、「このイメージは本物の……だ」と納得させることがあるかもしれない。けれどもそのことは、記録によっても正しいと証明される可能性があるのだ)【*359】

 

 測ることのできない証拠としては、微妙な視線、微妙なジェスチャー、微妙なトーンなどがある。

 私は本物の愛の視線がわかるだろう。うわべを装った視線からそれを区別するだろう。(もちろんこの場合、私の判断を補強してくれる、「測ることのできる」保証もあるのだ)。しかし私は、ちがいを説明することがまったくできないかもしれない。しかもそれは、私の知っている言語にそれをあらわす言葉がないからではない。なぜ私は新しい言葉を導入しないのか?——【長いダーシ】私があふれんばかりの才能に恵まれた画家なら、本物の視線と見せかけの視線を絵に描くことも考えられるだろう。【*360】

 

 考えてみてほしい。どうやって人間は、なにかにたいする「視線」を手にいれるようになるのか? そういう視線はどうやって使うことができるのか?【*361】

 

 うわべを装うということは、もちろん、「たとえば痛いふりをしながら、実際は痛くない」ということの特別なケースにすぎない。こういうことが可能であるとしても、どうしていつもうわべが装われるのだろうか?——それは、人生という帯に描かれた、きわめて特殊な模様である。【*362】

 

 子どもはうわべを装うことができるようになる前に、たくさんのことを学ぶ必要がある。(犬はうわべを飾ることができない。しかし正直であることもできない)【*363】

 

 「こいつは、自分のうわべを装ってると思ってる」と私たちが言うようなケースが、たしかに出てくるかもしれない。【*364】

ウィトゲンシュタイン哲学探究岩波書店、p446-451

 

ウォディントン→「生命の本質」p152-155

 人類が発展させたのは、後の世代にその潜在的能力を伝えていく新しい方法なのである。これは言語の使用に依存する。いろいろな事実、あるいは物事のとりあつかい方、それは一つの世代から次の世代へと教え継ぐことができる。教えたり習ったりする過程は、生物学的な遺伝とまったく同様なはたらきをする。この過程によって、人間は次の新しい世代の性格を規定することに貢献する。このようにしてえられる結果が遺伝に似ていることを標示するために、この型の情報伝達の方法を「社会遺伝的な伝達」とよぶことにしよう。

 新しい遺伝の方法の発達は、必然的にそれに対応した新しい進化の方法を出現させる。もちろんこれは、人間が他の生物と同様に行う生物としての進化に、完全にとって代わるものではなく、ただそれを補足するものである。人間は生物学的に進化するだけでなく、社会遺伝的にも進化していく。そのうえこの社会的遺伝進化は人間の立場から見てはかりしれないほど重要な諸変化をきわめて急速に実現していく。書かれた歴史はじまってこのかた、人間の生物学的な潜在能力の点での進化が認められるのはほんのわずかだが、人間の文化という面では、最も著しい変化がおこったという証拠は数かぎりない。あたかも人類出現にいたる以前の動物の長い年月にわたっての生物学的進化によってもたらされた変化がそうであるように、人類文化の面における変化も一本道に沿ったものではない。ある文化は、ある動物の種類とおなじように袋小路へ向かって変化していったし、またある文化は一般的な見地からは退化と考えざるをえないような方向へと進んでいった。しかし動物の進化を全体として見ると、ある群は下等であり、また別の群は高等だというのが至当なような何らかの方向が認められるが、ちょうどそれと同じように、人類文化の発達を全体として眺めた場合は、遊牧民の小さな群や、食物採集者のあちこちに散在している群集のようなものから、孔子プラトンニュートン、レオナルドといった個人によって表徴される複雑で高尚な文明への変化の一般的な様式を認めることができる。

 人間以下の動物のせかいにおいても、進化的な進歩とよばれるにふさわしいような一般的な変化の様式がほんとうにあるという事実、これが人類の精神を鼓舞して倫理的努力のめざすべきものをさししめすのだという主張がしばしばなされてきた。現代におけるこういった倫理的ヒューマニズムのきわだった代表者はジュリアン・ハクスリである。同様な主張はもっとはっきり宗教的な立場からテヤール・デュ・シャルダンによっても提唱された。私自身は彼らの結論におおかたは賛成なのだが、なお、生物学的な実体としての人間の本性の考察から生まれる一つの別の論証をあげておこう。私が考えるところ、それは人間の倫理的な信念と進化の過程との間にもっと密接な連絡をつけるものである。私は最近別の著書において、かなり詳しくこの問題について論じたので、ここでほんのちょっと触れるにとどめておこう。

 教えたり習ったりすることによって、一つの世代から次の世代へ情報を伝えることを可能にする過程にとってはどういうことが必要なのかについて慎重に考えてみることが必要である。そのような過程が有効であるためには、情報を表現できるように言語が発展していることが必要であるばかりでなく、それを受けとる人にその情報を受けとるだけの心構えがそなわっていることが不可欠の条件である。生物学的な遺伝の過程では、新しい個体が伝えられる情報を受けとらないというわけにはいかない。どうしてかというと、情報の半分は卵の核のなかにすでにそなわっており、他の半分は卵を受精させた精子によってもちこまれるからである。文化的すなわち社会遺伝的な伝達の過程においても、通信が実際に受け取られることを確保するための類似の何らかのはたらきが必要である。いささか大ざっぱだが、社会遺伝的な伝達においては、受信人が何はともあれ語られたことを信ずる必要があるのだといってもよさそうである。彼が信ずるかぎり、世代から世代への情報の伝達は可能である。しかるのち第二の段階として、情報を受けとった人のうちで、本人の経験的観察や他のいろいろな情報との比較によって疑問がおこってくる。その結果、われわれが普通に了解しているような意味で信用すべきものとしてそれを採用したり捨てたりするのである。

 精神分析学者やピアジェのような学者による、幼児の精神的発達についての最近の研究はいずれも、発達しつつある心の内部で、そのような需要能力がどういうふうに形成されていくものかについていくらか光を投げかけはじめている。出生直後の人間の幼児では、自分自身とその環境を識別することができないらしい。幼児は真に唯我的な宇宙に生きていて、彼は世界そのものであり、世界は彼の一部分なのである。言葉によって外界から伝えられる情報を受けとる用意のできているような精神状態が発達するためには、いうまでもなくこのような唯我的単一性がうちこわされる必要がある。通信を受けとる準備ができているということは、幼児の心の内部に、情報をとり入れるだけでなく、それがある意味をもつことをゆるすような、一個の判定機関をもった心理体系が出現したことを示すのである。経験的な観察にもとづく事実として、伝達機構のために必要なこのような判定機関をそなえた体系の発達は、倫理的な意味で、あるものは善く、あるものは悪いという観念の形成と同時に進み、かつ密接に関連しながら進行するもののようである。何らかの権威者をもっているということが、倫理的観念の最も大きな特質である。われわれにおける善悪の観念は、必然的に両親とか教会のような何らかの外的権威によっておしつけられるものだという意味ではない。私がいおうとすることは、倫理的に価値があるという観念には、その本質的な部分として人にとにかく一つの責任を課するという意味での権威的なものがあるということなのである。

 私が論証を進めたいのは、情報伝達という社会遺伝的な方法が可能になるために必要な権威的なものと、倫理的な善悪の観念の発達のうちに含まれる権威てきなものとは、同じ精神のはたらきの二つの側面をなすのだということである。倫理的信条の発達にみちびくようなものとは、まったく別の文化的伝達の方法を考えることも理論的には可能であるかもしれない。しかし現実には人間の進化の筋道で実際に生み出された機構では、権威的なもののこれら二つの面はしかと結びあっていて切り離すことができない。

 そうだとすれば、人間が正邪の観念を有するにいたるまで進化した生物だという事実は、彼をして教えたり学んだりして情報を伝達することを可能にしたと同じ機構の本質的な一部分をなすのである。そこで、われわれの倫理性の本質は、それがわれわれ人類に特有な社会遺伝型の文化の遺伝機構の一部分をなすということである。これから結論されるのは。ある遺伝的変化についてはそれが生物学的な準位での進化の過程をおし進めるのに適しているかどうかということで評価できるように、種々な型の倫理的な信念についても、それが文化の準位での人間の進化をおし進めるみこみがあるかどうかということから判断を下すことができるということである。いかなる形にせよ、人間の文化的な進化の一般的様式の理解に達すると、それはわれわれが「智恵」とよぶ規準をわれわれに与えるようになって、それは一つの倫理的信念の型と他のものとどちらを採るのがよいかを判断するために用いられるものである。

ウォディントン「生命の本質」岩波書店、p151-156