意志の弱さは「自己責任」か?(ジョセフ・ヒース&ジョエル・アンダーソン「先延ばしと拡張された意志」メモ)

 本記事では、ジョセフ・ヒースとジョエル・アンダーソンによる共著論文「先延ばしと拡張された意志」(Joseph Heath & Joel Anderson, 2010,  "Procrastination and the Extended Will")を紹介する。

 この論文は『時間泥棒:先延ばしについての哲学的論文集』に収録されているものだ。「先延ばしの哲学」というと日本ではあまりなじみがないように思われるが、英語圏だと(哲学に限らず)先延ばしの研究は結構盛んらしい。

"The Thief of Time: Philosophical Essays on Procrastination"

 この論文が哲学的に面白いのは、アンディ・クラークが提唱した「拡張された心」という概念を展開して「拡張された意志」というアイデアを提示している点と、それを政治哲学・公共政策的議論に繋げているところだろう*1。ただ、実践面で見たときに有益だと思われるのは、後半で提示される先延ばしの様々な対処策の整理だ。これらの対処策はどれも、言われてみれば誰もが普段から当たり前に用いているものだが、「拡張された意志」という観点から整理されることで非常に見通しが良くなっている。ということで、先延ばしへの実践的対策に興味がある人には、前半は流し読みで後半からきちんと読むことをオススメする。

 また例によって要約は大雑把なもので、重要な部分を切り捨てたり、順番を入れ替えたりしている。ここで提示されている議論をきちんと理解したい場合は元の論文にあたってほしい。

 最後に注意点だが、この論文は2010年に出版されたもので、今では再現性の面で問題があるとされている行動経済学や心理学の研究も参照されている(例えばロイ・バウマイスターの「自我消耗」の研究)。だからといって「拡張された意志」論が直ちに間違っているということにはならないだろうが(もちろん、無傷でも済まないだろうが…)、この点は注意して読んでほしい。

 

序論

  • 「人間は合理的に行為する」という見解は、ここ数十年激しい攻撃にさらされてきた。人間の行為がいかに合理性から外れるかを示す行動経済学の研究によって、人間はひどく非合理的な生き物であることが明らかになった、と論じられることも多い。
  • しかし人間がそこまで非合理なら、どうやって日常生活をそつなくこなしているのだろう? 行動経済学の研究が示しているのは、人間が非合理的であるというよりもむしろ、人間の合理性が様々な外部足場に支えられたものであり、外部足場を取り外された(実験室の)環境では簡単なタスクすらこなせなくなる、ということではないだろうか。
  • この見解を支えているのは、アンディ・クラークらが提唱する「拡張された心」(extended mind)という考え方である。この考え方によれば、人間の認知能力や推論能力は、脳と環境が一体となって機能している。確かに人間の脳に搭載された様々なヒューリスティックは頻繁に誤作動を起こすが、環境内の様々な外部足場に支えられることで、人間は合理的に推論したり行為したりすることができる。
  • 「拡張された心」というアイデアに従えば、人間の認知を考える際に脳にばかり注目するのは内在主義的観点に偏りすぎており、もっと脳の外の外部足場に注目した外在主義的観点を重視する必要がある。この考え方は昨今ますます受け入れられてきている。。
  • しかし、認知ではなく「意志」の話になると、まだ内在主義的な理解が強く残り続けている。本稿では、意志についての内在主義的理解を批判し、「拡張された意志」という概念を提示していく。

「拡張された心」とは何か

  • 大抵の人間は、「頭の中」だけで2桁の数同士のかけ算(例えば43×87)を行うことができない。しかし紙とペンがあれば、筆算で2桁同士のかけ算も難なく行うことができる。人間がきちんとした計算を行えるのは、多くの場合こうした脳の外部の装置(外部足場)に支えられているからだ。
  • そろばんという外部足場について考えてみよう。そろばんは、ワーキングメモリの容量という人間の脳の限界を根本的に解決することなく、効果的に回避することを可能にする装置(クルージ)だ。そろばんによって、脳内で行うのが難しい認知的操作も、比較的簡単な身体動作に置き換えられる。
  • 紙やペン、そろばんの例は、人間の認知能力を考える際に「脳内」で起こっていることだけに注目するのではなく、脳の外にも注目すべきであるということを示唆している。「拡張された心」とは、こうした外部足場が人間の認知システムを補助しているだけでなく、その一部を構成しているという考え方である。

先延ばしを定義する

  • 外部足場に支えられない人間の「認知」に限界があることは明らかだが、人間の「意志」にもまた限界がある。それがセルフコントロール問題だ。
  • 個人はある行為を実行しようと意図するが、いざそのタイミングになると行為を実行するのに失敗し、それを後悔する。後悔している以上、その行為を実行したくないとか、しなくてもいいという風に考えが変わったのではないはずだ。心変わりが生じていないにもかかわらず、意図した行為の実行に失敗するというのがセルフコントロール問題である。
  • セルフコントロール問題の1つの例が先延ばし(procrastination)である。最も分かりやすい例は洗い物の放置だ。本稿では先延ばしを「現在の小さなマイナスよりも未来の大きなマイナスを選ぶ」現象と捉えて、次のように定義する。*2
    1. その行為を実行すればマイナスの効用(disutility)がもたらされる。しかし、その行為の実行を遅らせれば、最終的に実行しなければならなくなったときのマイナスの効用が大きくなる(つまり事態が悪化する)、ということを知っている。
    2. 行為の実行を遅らせたことを後で後悔するだろう、と考える理由がある
    3. にもかかわらず、行為の実行を遅らせてしまう
  • この定義を採用したのは、先延ばしと言えなさそうなケースをきちんと除外し、先延ばしと言えそうなケースを過不足なく拾えるからだ。
    • 他の行為の実行を優先すべきだと考えを改め、当初意図していた行為の実行を遅らせるケース:個人が後で後悔すると考える理由がないので、これは先延ばしとは言えない
    • 単純に、今それをしなくてもよいと考えて行為の実行を遅らせるケース:行為の実行を遅らせることで最終的に実行しなければならなくなったときのマイナスの効用が大きくなるならば、主体は「今それをしなければならない」と考えているはずである。よってこれは先延ばしとは言えない
    • ずっと先延ばしにし続けていたら、行為を実行する必要がなくなってしまったケース:このとき、現実の個人は最終的に後悔しないことになるだろうが、先延ばしにしている時点では、後で後悔するだろうと考える理由がある。よってこれは先延ばしと言える

双曲割引モデル

  • 先延ばしは、怒ったり酔っぱらったりして我を忘れ、後で後悔するような行動をとることとは違う。先延ばしは、意識的で意図的な行為だ(「なんでまだ皿洗いしてないの?」と聞いて「めんどくさいから先延ばしにしてるんだよ」という答えが返ってくる状況は容易に想像できる)。
  • 双曲割引モデルを使えば、先延ばしを意図的・意識的な行為としてうまく説明できる*3
  • 一般に個人は、効用がもたらされる時点が現在から遠ざかれば遠ざかるほど、その度合いを割り引いて評価する。割り引き方は様々であり得るが、その1つが双曲割引だ。双曲割引の場合、個人は現時点に近い時点の効用を大幅に高く評価する
  • 双曲割引が興味深いのは、選好の一時的な逆転をもたらすことだ。近い未来に小さなマイナスが生じるか(まだ皿がたまっておらず汚れも固着してないうちに皿洗いをする)、遠い未来に大きなマイナスが生じるか(たくさんの汚い皿を洗う)、を選べるとしよう。個人は、小さなマイナスが生じるずっと前の時点なら、大きなマイナスを避けるために小さなマイナスを選ぼうと考えるだろう。しかし双曲割引の場合、小さなマイナスが生じる直前になると、急にそのマイナスが非常に大きく見えてしまうのだ。こうして小さなマイナスを避けてしまい、後で大きなマイナスを被って後悔する(あのとき皿を洗っておけば…)ことになる。
  • 双曲割引モデルが魅力的なのは、先延ばしを、意識的コントロールが不十分なために生じる意図に反した行動と見なさずに説明できることだ(つまり、哲学者の言う「厳密なアクラシア」ではない形で先延ばしを捉えることできる)。先延ばしが「非合理」に思えるのは、それが意図に反しているからではなく、選好が一時的に逆転してしまっているからだ。
  • この認識に従えば、先延ばしを防ぐには、「先延ばしが最終的には自分の損になる」ということを認識することよりも(そんなことは先延ばしをしている最中の個人も認識しているのだ)、外部足場を利用して選好の一時的逆転に対処する戦略の方が有効だろう。

4つのセルフコントロール戦略

  • 先延ばしを防ぐための方策の1つは、言うまでもないが、意志力の行使だ。先延ばしをせず物事に取り組める人は「意志力が強い」とか「自制心が強い」とかと評価されることが多い。
  • しかし、意志力の有効性は過大評価されていると思われる。意志力についての研究ではまだ分かってないことが多いが*4、個人を様々な誘惑に晒す現代社会において求められるセルフコントロールの量は、恐らく個人に備わった意志力のキャパシティを超えているだろう。セルフコントロールの行使において意志力が果たしている役割は、通常考えられているよりも小さいと思われる。
  • 意志力と見なされているものの多くは、実際には、意志力を行使しなくて済むようにするための戦略だ。私たちは日々の生活で、様々な戦略を用いてセルフコントロールを実現している。そうしたセルフコントロールの戦略として、次の4つが挙げられる:①直接的心理操作戦略、②セルフマネジメント戦略、③環境戦略、④社会的戦略。

直接的心理操作戦略

  • 双曲割引モデルによれば、先延ばしが生じるのは、やるべきタスクそれ自体がマイナスの効用をもたらし、また現在から時間的に隔たった遠い未来の(プラス/マイナスの)効用が大きく割り引かれてしまうためだ。であれば、タスクや時間的隔たりの捉え方を変えるような戦略的リフレーミングを行うことで、先延ばしに対処できるだろう。
  • タスクの捉え方を変える戦略的リフレーミングの典型は、つまらない仕事にも面白い要素を見つけるという「メリー・ポピンズ」的な戦略だ。退屈な作業も、時間を計測して自己最高記録を目指すゲームにしてしまえば楽しくなるだろう。これはリフレーミングによって、タスクがもたらすマイナスの効用それ自体を小さくしている
  • 時間的隔たりの捉え方を変える戦略的リフレーミングとしては、大きなタスクをスモールステップに分解するというものがある。大きなタスク(例えば「本を執筆する」)の達成は大きな効用をもたらすだろうが、効用がもたらされるのは遠い将来であるため、大きく割り引かれてしまう。しかしそれをスモールステップに分割すれば、各タスクの達成とそれがもたらす効用は、比較的すぐ実現される。ピーター・ゴルヴィツァーによる「目標意図」と「実行意図」の区別も、この戦略を表現したものと言える。

セルフマネジメント戦略

  • 直接的真理操作戦略の難点は、意識的な努力が必要なことだ。しかし、意識的努力が必要ないような心理的戦略も考えられる。それは、直接的真理操作戦略と違って、先延ばしの根底にある問題(タスクがマイナスの効用をもたらす、遠い将来の効用が大きく割り引かれる)には直接対処せずに先延ばしを解決する心理的クルージ(効果的な回避策)である。代表的なのは以下の3つだ。
  1. 習慣化:習慣的行動は自動的に生じるもので、意識的な努力を必要としない。タスクの実行を習慣にしてしまうことは、先延ばしを避けるクルージの古典的な例だ。
  2. 心理的バンドリング:嫌なタスクを好きなことと組み合わせること。典型例は、単純作業をするときに歌を口ずさむことだ。賃労働に関連するタスクなら、タスクを実行するたびに稼いだお金を記録するというのも1つのやり方だろう。
  3. 構造化された先延ばし:人はやりたくないタスクAを先延ばしするとき、タスクAほどではないあまりやりたくはないタスクBを代わりに行いがちだ。この傾向を利用するのが、ジョン・ペリーの考案した「構造化された先延ばし」戦略だ。やりたくないタスク(例えば皿洗い)を抱えている人は、もっとやりたくないタスク(例えば掃除)をわざと設定すればよい。そのタスク(掃除)を先延ばしにするという形で、当初やろうと思っていたタスク(皿洗い)を行うことができるかもしれない。

環境戦略

  • 上に見た2つの戦略は心理的なものだった。そのため個人の能力に左右される側面が大きく、またセルフコントロールに利用できる心理的リソースはそう多くないので、戦略の数も限られていた。しかし、ひとたび心理的戦略から離れ、環境内の外部足場に目を向ければ、セルフコントロールに利用できる戦略は一気に拡大する。
  • 環境戦略は非常に一般的に用いられているので、見落とされがちである。記憶力の弱さを克服する際、私たちは大抵メモに頼っているが、それはあまりにも当たり前なので、奇抜な記憶術に目が向いてしまうのと同じだ。
  • 例えばオフィスやキッチン収納、パソコンのデスクトップなどを見れば、その人がどのように環境を自身の目的に役立つよう編成しているかが分かる。セルフコントロールの場合も同様で、人々は自身にとって望ましい行動がしやすくなり、望ましくない行動がしにくくなるように環境を操作している。
  • こうした環境の操作は、以下の3つのタイプに区別できる。
  1. トリガー(引き金):行為を始める/終わらせるための合図を出す
    • 朝起きてランニングしようとしている人を考えよう。起床してからコーヒーを淹れて新聞を読み始めれば、ランニングに出るのは億劫になってしまうだろう。そこでコーヒーメーカーの横にランニングシューズを置いておけば、コーヒーを淹れることで朝のルーティーンが始まってしまうのを防ぎやすくなり、ランニングに向かいやすくなる。
  2. シュート(滑り台):望ましい行為のハードルを下げる
    • こちらも朝のランニングの例で考えよう。朝起きてから面倒な支度をしなければならないなら、ランニングに向かう気は削がれてしまうだろう。そこで前の晩のうちに一式を用意しておけば、ランニングに向かいやすくなる。
  3. ラダー(はしご):望ましくない行為のハードルを上げる
    • 気を逸らさせるものは先延ばしに結び付きやすいので、気を逸らさせるものを自分から遠ざけるのは有効な先延ばしの回避策だ。例えばソリティアやネットサーフィンが先延ばしの原因になっているなら、ショートカットを削除したり、ウェブにアクセスできる時間を制限するソフトを入れたりすることができる。
    • 気を逸らせるものは先延ばしと強く結びついているので、オフィスのドアを閉じる、インターネット接続がない環境で仕事をする、といった方策もパフォーマンスを劇的に向上させる。

社会的戦略

  • 環境内の事物だけでなく、周囲の人々もセルフコントロールの外部足場として利用できることが多い。典型的な例は、自身が誘惑に駆られてしまった場合に備えて自分以外の人にコントロール権を与える「ユリシーズ契約」だ。しかし、セルフコントロールの外部足場として周囲の人を利用する仕方は、もっとたくさん存在する。
  • 先延ばしを防ぐ社会的戦略として最も分かりやすい例は、しめきりである。しめきりは、他人に対してある時点までにタスクを終わらせると誓約することだ。しめきりはただ恣意的に設定されただけだ(つまりしめきりを破っても現実になんの悪い帰結も生じない)としても、かなり有効な動機づけとなる。
  • 共同作業も社会的戦略の1つだ。他人と共同でタスクに取り組むと、失望されたくないとか、尊敬されたいとかといった様々な社会的動機が働く。そのため多くの人々は、個人よりも集団での方が効率的に作業に取り組める。また、心理的戦略も共同作業の場合ははるかに有効に働きやすい(例えば、競争というゲーム要素を導入することでつまらないタスクをリフレーミングできる)。
  • 親密な関係の他人は、セルフコントロールの実現に大きく貢献している。ジャンクフードを買い込まない人が買い物を担当するといった家事の分業はその典型例だ。また、先延ばしをしていたら互いに率直に非難できるというのも重要な外部足場となっている。
  • 付き合う人を選ぶのも社会的戦略の一種だ。人間は、周囲を模倣してデフォルトの行動を決定している。勤勉になるための最良の方法は、勤勉な人と交流することだ。同様に、セルフコントロールの失敗を避けたいなら、セルフコントロールが苦手な人との交流を避けるのが有効な方策となる。
  • 社会的戦略のリストはまだまだ続いていくだろうが、ひとまずここで止めておこう。社会的戦略の重要性は、大学生が一般の人よりも深刻な先延ばしの問題を経験しているという事実を説明できる。大学生は実家を出るなどして新しい環境に置かれ、親の直接的な監督下からも外れるので、これまで利用してきた外部足場を奪われてしまいがちなのだ。

「意志」の理解をアップデートする

  • 意志を内在主義的に捉える従来的な見解に従うなら、先延ばしを避ける戦略は主に精神的・個人的・自発的なものになる(非合理を避けるには、正しく考え、決めたことをやり抜くのが重要だ、という風に)。この観点からすると、上で見てきたような戦略は、先延ばしを避けるための道具の一種に過ぎないと見なされるだろう。
  • しかし、上で見てきた議論はむしろ、意志の内在主義的理解から外在主義的理解へ移行すべきだということを示しているのではないだろうか。

精神から環境へ

  • 意志の外在主義的理解への移行は、タイムマネジメントのノウハウ本にも既に現れている。
  • 従来のタイムマネジメントやセルフヘルプの文献の多くは、セルフコントロールを邪魔しているのは失敗への恐怖といった心理的要因だと考えがちだった。そのため、「先延ばしにしたらどうなってしまうか考えよう」とか「ネガティブ思考は脇に置こう」とか「とにかく作業を始めよう」といったアドバイスに終始しがちであった。
  • しかし近年人気を博しているデイヴィッド・アレンのノウハウ本は、外部足場の利用を強く強調している。またアレンは、漠然とした大きなタスクを取り掛かりやすい小さなタスクに変換していくという、明らかに精神主義的でないアプローチを採用している。

個人から社会へ

  • とは言え、精神主義から脱して外部足場を強調するアプローチも、依然として個人的なツールに焦点を当てがちである。しかし、外部足場の多くは社会的なものだ。
  • 社会的な外部足場が利用できなくなると、個人のパフォーマンスは顕著に下がる。例えば伝統的な殺風景なオフィスから開放的なオフィスに置き換わった職場の人間は、気を逸らさせるものに囲まれた状況で集中して仕事をするのがどれほど大変かを思い知ることになった。フリーランスやテレワークの労働者は、同僚という外部足場が存在しないことで、うまく自己規律できなくなっていることに気づいた。
  • しかしここ数十年、社会的な外部足場は掘り崩されていく傾向にあり、個人はますます自前の資源を用いて先延ばしに対処しなければならくなってきている。

自発的なものから外発的なものへ

  • また、外部足場は私たちが自発的に構築していくものだという想定にも問題がある。私たちにとって重要な外部足場は、私たちが設計したものではなく、社会的な遺産であることが多い。
  • 効果的な外部足場を意図的に構築するのは非常に難しいが、解体するのは簡単だ。例えば昔なら、深夜にはテレビも放送しておらず、バーやレストランも閉まっていて、電車も走っていなかった。このような、十分な睡眠をとるのに役立っていた外部足場は今や取り払われ、人々は睡眠不足に悩まされている。

外部足場へのアクセスは社会の問題でもある

  • 以上の議論は、明らかなパターナリズムを許容してしまう危険性を持っているかもしれない。自律や自由へのコミットメントと、非自発的な外部からの意志へのサポートが個人にとって有益であり得るという認識との間には、複雑な緊張関係が存在する。どうバランスをとるべきかというのは簡単には答えられない問題だ。
  • しかし、先延ばしは個人の人生を破滅させ得るものだ。物事を先延ばしにしてばかりいる人は、最終的には仕事や健康を失ってしまう傾向にある*5
  • このことを考えれば、意志の外在主義的理解は政治的なインプリケーションを持っている。①現代の社会の発展が個人にセルフコントロールをますます要求し、②さらに個人から外部足場を奪う傾向にあり、③この2つが最もヴァルネラブルな人々の人生に壊滅的な影響をもたらすなら、先延ばしは個人の問題であるだけでなく、社会正義の問題でもある
  • 個人の人生が外部足場へのアクセスしやすさに強く影響され、また外部足場の構築や解体が公共政策によって対処できるものなら、先延ばしが個人にもたらす負の帰結は、その個人だけでなく社会がもたらしたものでもあると言える。
  • ではこれは、例えば個人が病院に行くのを先延ばしすることにも社会が責任を持って対処すべきだということを意味するのだろうか。必ずしもそうとは限らない。とはいえ、個人の厚生や、ヴァルネラブルな人々の状況、社会における不平等に真剣な関心を持つならば、先延ばしの問題にも関心を持つべきだということは言えるだろう。
  • 先延ばしが社会的な問題だと認識されるようになれば、この問題にどのようにアプローチすべきかを巡って様々な意見対立が生じるようになるだろう。こうした問題は複雑だが、私たち社会はこの問題に対処するのを先延ばしにするべきではない

関連文献

 ヒースは「拡張された意志」のアイデアを様々な場所で利用しているが、特に『啓蒙思想2.0』はこのアイデアを軸に議論が展開されていると言ってよい。本記事を読んでヒースに関心を持った人はまずこの本を手に取ってみてほしい。

ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0』

 また『ルールに従う』の第8章は、合理的行為の理論において「意志の弱さ」をどう位置付けられるかという理論的関心から、「拡張された意志」の議論が持ち出されている。

ジョセフ・ヒース『ルールに従う』

 関連するブログ記事も2つほど挙げておこう。

ジョセフ・ヒース「なぞなぞ:リバタリアンペドフィリア(小児性愛者)の共通点ってなーんだ?」(2014年4月22日) - 経済学101

econ101.jp

ジョセフ・ヒース「“自分のあたまで考えよう”的『啓蒙思想1.0』はどうして駄目なのか。ウォルドロンとサンスティーンの論争から見る『啓蒙思想2.0』が必要な理由」(2014年10月10日) - 経済学101

econ101.jp

 

 「拡張された心」論については、提唱者であるアンディ・クラークの本が邦訳されている。

アンディ・クラーク『現れる存在』

アンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』

 

 双曲割引については提唱者エインズリーのこちら。

ジョージ・エインズリー『誘惑される意志』

 なおヒースは双曲割引の議論が大好きなので、『資本主義が嫌いな人のための経済学』の第11章でも双曲割引についてまとまった解説がある。

ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』

 

 この論文では近年の仕事術系の本に「拡張された意志」の発想が見て取れると指摘されており、その筆頭として挙げられていたのがデビッド・アレンの著書だ。また最近は発達障害の人のためのテクニック本などがたくさん出ているが、それらにも「拡張された意志」的な発想が現れているように思う。

デビッド・アレン『はじめてのGTD

 また『独学大全』も、『啓蒙思想2.0』が参照されていることからも分かるように、「拡張された意志」の発想が随所に出てくる本だ。

読書猿『独学大全』

読書猿『問題解決大全』

*1:本文を読んでもらえば分かるが、この論文は最終的には「先延ばしは完全な自己責任とは言えない」というような結論になっている。ということで本記事のタイトルもそのようなものにした。ただ勘違いしている人がたまにいるので注意しておくが、ここで問題になっている「自己責任」は、『資本主義が嫌いな人のための経済学』の6章で扱われている自己責任の問題とは異なる。6章で扱われているのはモラルハザードの問題だ。そこでは、右派は保険(リスクプーリング)が必然的にもたらすモラルハザードを許容せず「自己責任」を訴えるが、保険は現代社会に不可欠だからそんな無謀な議論を行っても仕方がない(そして右派の多くはこの点で一貫性がなくダブルスタンダードだ)、と論じられている。対して本記事や『啓蒙思想2.0』で扱われているのは双曲割引(を含む認知バイアス)の問題で、私たち社会は共同的に外部足場を構築することで双曲割引に対処できるし、そうすべきである、ということが言われている。まとめると、前者は「保険がもたらす協力の利益は莫大なんだからちょっとくらいの副作用(モラルハザード)は受け入れろ」という話で、後者は「外部足場の構築(による双曲割引への対処)は協力の利益の1つであり、積極的に実現していくべきだ」という話だ。長くなったが、両者が全く異なる話であるということだけ理解してくれればよい。ちなみに『資本主義が~』の11章は双曲割引を扱っており、右派は双曲割引(インセンティブに問題のある仕方で反応すること)とモラルハザードインセンティブへの反応そのもの)を混同しがちだと述べられれている。

*2:元の定義とは表現が色々異なっているので注意。

*3:なんか書いているうちに正しい説明になっているか自信がなくなってきたが、双曲割引の議論をきちんと確認したい人は、最後の方に載せている関連文献を見てほしい。

*4:ここでヒースは意志力に関する近年の研究として、バウマイスターの自我消耗の研究を引いている。先にも述べたように自我消耗の研究には再現性の面で問題があるとされているため(また議論に不可欠なわけでもないので)、ここでは取り上げない。とはいえ、自我消耗の研究が信頼できないとしても、意志力には限界があるという想定は理に適ったものだろう。

*5:そんな大げさな…と思う人もいるかもしれないので、原註で挙げられていた論文を貼っておく。Piers Steel "The nature of procrastination: a meta-analytic and theoretical review of quintessential self-regulatory failure"。