左派の望む社会は経済成長に支えられている(ベンジャミン・フリードマン『経済成長とモラル』読書メモ)

 ブログ更新も滞っているので、ちょっとした読書メモを。手元に本がなく、個人的にとった読書メモを頼りに書いているので、間違いや引用の誤字などあったらごめんなさい。

 さて今回は、ベンジャミン・フリードマン『経済成長とモラル』東洋経済新報社を紹介する。

 著者のベンジャミン・フリードマンはバリバリのマクロ経済学者である(らしい)が、この本は、タイトルからも窺えるように、経済成長を経済学的に説明するのではなく、経済成長が社会に何をもたらすかを語っている*1

 構成を確認すると、最初に経済成長についての総論を、次にアメリカの現代史を辿り、最後に経済成長についての各論を述べる、という感じになっている*2。筆者は、アメリカのパートはまるまる飛ばして、総論と、各論の一部しか読んでいない。

 上で、経済成長を経済学的に説明する本ではないと書いたが、それ以上に本書は「思想」の話をたくさんしている変な本だ。特に第2章では、啓蒙思想における進歩の観念は千年王国論が起源で~、みたいな話を延々としていて、読んでいて辛かった*3

 

 本書の議論の肝は、「経済成長と進歩的な社会の実現には相関がある」という主張である。このような思想は啓蒙思想のときからあった、という話をフリードマンは延々と述べているのだが、そこはさしあたりどうでもいい。また、経済成長と社会的寛容さや進歩的な諸政策の実現には相関がある、という主張も、ここではひとまず置いておく。ここで問題にしたいのは、経済成長と進歩的な社会の実現が連動するとしたら、それはどのようなメカニズムで生じるのか、である(それを論じてるのは第4章である)。

 まず第一に候補として考えられるメカニズムは、「経済成長によって働き口に困らなくなるから」というものだろう。しかしフリードマンは、経済成長と低失業率は完全には連動しないし、低失業率だけど賃金が低くて生活が停滞することだってある、としてこの議論を採用しない。そして、経済成長が進歩的な社会の実現をもたらすのには、労働の問題を超えたメカニズムが存在するだろうと主張する。

 では、それはどんなメカニズムか。その話をする前に、人間がどのようにして自らの幸福度を認識するか、を論じておきたい。フリードマンによれば、人は「周囲との比較」と「過去との比較」によって自分の幸福度を認識する。要するに、縦(過去の自分)と、横(周りの人々)とで比べて、自分の幸福度を認識するのである*4

 だが、「周囲との比較」で全ての人が満足することは原理的にあり得ない(大半の人が満足することも難しいだろう)。相対的な優劣を巡る問題になると、必ず優と劣が生み出され、全ての人が優になることができないからである*5

 しかし、「過去との比較」なら大半の人が満足することは可能である。経済成長は、多くの人にとっての生活水準の向上を可能にする。そして、「過去との比較」で満足した人は、「周囲との比較」で満足できなくてもそのことはあまり気にしなくなる。縦の比較で満足できれば、横の比較で満足できなくても、不満感は大幅に小さくなるのである。だから、多くの人の幸せのためには経済成長が必要である。

 しかし経済成長は(過去との比較を通じて)人々の幸せを実現するだけではない。経済成長は、進歩的な政策への広範な支持をもたらし得るのだ。このことを理解するには、成長が起こらず停滞した経済を考えてみればよい。そのようなゼロサムな社会では、一人が階層上昇することは別の一人が階層下降することを意味する。人は同じ大きさの利益と損失なら、損失の方をひどく嫌う性質を持っているので、階層流動性の拡大を強く支持する人は少ない(何も持たない、従って政治力も持たない人か、特殊な事情から階層流動化が自分の利益となる人だけしか支持しない)。したがって階層流動的な政策をとることは非常に難しくなるだろう。

 しかし、経済成長の下ではどうだろうか。

これとは対照的に、堅調な経済成長の下では、「より多く」と「より少なく」の間の基本的な非対称性の重要性が低下する。ほとんどの人にとって、下方への移動は、「より少ない」をもたらすことはなく、たんにうまくすれば享受できたはずの「より多く」ほどではないというだけだからである。したがって、所得分配のはるかに広い範囲で成長する経済においては、人々は〔階層間〕移動の流動化を受け入れるだろうし、差別禁止法や低所得階層の子供たち向けの特殊教育プログラムのような、実際の〔階層間〕移動を増やすための措置も受け入れるだろう。(p108あたり)

 つまり、経済成長が生じていれば、階層流動化が進むことで万が一自分が階層下降したとしても、それは「得られるかもしれなかった利益が得られない」だけであり、「もともと持っていたものを失う」ことではない。だから、階層流動化をはるかに受け入れやすくなる。同様に、富の分配を平等主義的にする政策も受け入れやすくなるだろう。

 以下の文章は、本書の中で個人的に最も重要だと思った一節である。

多くの人々は、少なくとも近代の西欧社会においては、原理的には機会均等や公平さを好むと考えられるので、それがコストもリスクも自分たちにもたらさないならば、そうした目標を促進することを支持するであろう。しかし実際には、社会的な公平性を高めたり機会均等を進めたりすると、少なくとも一部の人々にはコストやリスクがかかってくるのが普通である。この目的に向けて経済成長が持つ重要性は、所得上昇によって、自分のみならず他人のためにもよりよい社会と考えられるもののために、人々がリスクやコストを負いやすくする点にある。(p119:太字は筆者)*6

*7

 

 以上が、(筆者から見た)本書の主張の要点である。この議論がどこまで正しいか筆者には判断しかねるが、進歩的な諸政策が経済成長に支えられて実現しているとしたら、左派が経済成長を否定するのは自滅的だと言えるだろう。また、フリードマンの議論は、いわゆるトリクルダウン論のような、「経済成長が実現すれば自動的に貧しい人にも恩恵が与えられる」というものではないことに注意すべきだ。経済成長は平等や公正を自動的に実現してくれるわけではない。とはいえ、平等や公正を実現するためには経済成長が(実質的に)不可欠である、とフリードマンは論じているのである。

 

 さて、他にも面白かった論点をいくつか挙げてみよう。

 

ゼロサム状況と道徳

 これは上の議論と重なるが、重要な論点なので改めて強調しておきたい。というのは、昨今(いや、昔から?)、ホモ・エコノミクス」な人間観のせいで世の中悪くなった、昔はお金儲けは悪徳だった(少なくとも美徳とはされていなかった)のに、現代社会はお金儲けを肯定し、お金儲け以外の価値を低いものと見なすよう人々を洗脳している、みたいな話が流行っているからだ*8

 しかし以下の議論を見てみると、手放しで上のような主張を肯定するのは難しくなるように思われる。

〔筆者注:自発的交換に導かれた社会的分業が可能にした生産性の上昇により〕いってみればここで人々は初めて、戦争、略奪、奴隷制、「徴税請負制」などなど、要するに歴史的にもっぱら他人を搾取することにより個人の物質的福利を高めてきたような反道徳的な手段に頼ることなく、国家が富を得ることが可能と考えるようになったのである。商業によって、一つの国は完全に自力で平均的生活水準を持続的に上昇させることができた。(p48あたり)

およそ潜在的な成長という概念が欠落していると、資本の生産的使用に基づいた富の蓄積すら、しばしば猜疑の対象となる。産業革命によって経済成長が可能だと考えられるようになるまでは、通常の利付貸し出しも禁じる「高利貸付禁止法」や「自分の地位を超えた」服装や居住を禁じる贅沢禁止令が、ほとんどの西欧諸国でなじみ深いものであった。経済的〔階層間〕流動性を高めるような措置は皆無であり、出生に基づく差別が通常であった。(p108あたり)

 ようするに、ゼロサム状況においては自分にとってのプラスが他者にとってのマイナスとイコールになる。だから、ゼロサム状況で自分が得をしようと思ったら、他者を搾取するような道徳的によくない手段を取らなければいけない。更に、誰かがプラスになろうとすることは自分がマイナスになるかもしれないことを意味するから、人がプラスになろうとする努力をくじくために多くの努力が注がれることになる。

 「お金儲けを肯定しない」道徳は望ましいかもしれないが、それは単にプラスサムなどあり得ない(あるいはあり得ないと思われていた)社会状況に要請された道徳だったのかもしれない。そしてその裏に、搾取や足の引っ張り合い、階層を固定化するための積極的努力が存在したのだとすれば、本当にそんなものが望ましいと言えるのかはかなり疑問である。少なくとも、こうしたダークサイドに目をつぶるべきではないだろう*9

 もちろん、だからと言って経済成長のあるプラスサム状況なら全ての問題が解決するわけではない。とは言え、ゼロサム状況が社会に何をもたらすかということは十分な注意を払わず、経済成長は必要ないなどと無責任なアジテーションを行ったり、それをもてはやしたりする人々はやっぱりどうかと思う。

 

公共財としての経済成長

 p17あたりにこんな文章がある。

しかし、この通念〔筆者注:政府は民間に介入すべきでないという通念〕も大きく間違っている。経済成長が高所得のみでなく(われわれは評価するが市場は評価しない)高い開放度・寛容度やデモクラシーをもたらす以上、そして、そうした価格のつかないメリットが価格のつかないデメリットよりも大きいならば、市場だけに任せておくと、経済成長は低すぎるものとなるバイアスが生じるだろう。経済成長率を史上が決定する間、政府は脇にどいておくべきだという主張は、公共政策の持つ重要な役割を無視している。望ましい経済成長率は市場のみが決定する率より高いのだから、成長を高めることが公共政策の役割なのである。

 ようするに、経済成長は正の外部性が大きいから、政府は積極的に経済成長を促すべきだ、という話である。このアナロジーがうまく成り立ってるのかはよく分からないが、政府と経済成長の関係というテーマは面白そうである(小並感)*10

 

ロマン主義マルクス主義

 19世紀、むきだしの資本主義*11が猛威を振るう中で、それへのリアクションとして現れた2つの思想・運動が、(19世紀の)ロマン主義マルクス主義だった、という議論が第3章でなされている。資本主義のもたらした現実に直面して、過去に理想を求めたのがロマン主義、未来に理想を求めたのがマルクス主義というわけである。

 ちなみに、19世紀において主流だったのは、マルクス主義ロマン主義ではなくて、水晶宮への熱狂に見られるような進歩思想だった、とフリードマンは言っている。

 ちょっと面白かったので、p76あたりにあった文章を引いておこう。

今日でもそうであるように、19世紀においてもこういったロマン主義的思潮の中心的な関心は、たんに個々人がさらされた物質的困窮だけにとどまらず、ますます個人主義的で市場主導的となっていく相互交渉が社会的絆や家族的紐帯、そして愛国心さえも破壊していくことによる、社会に及ぼす広い意味での影響であった。ただ、こういった視角からの関心にとって根拠となる納得のいく見解を、決して存在したいことのない理想化された過去を暗に比較の基準として持ち出すノスタルジアからほどき分けることはしばしば困難であった。

 「新自由主義」論の説明と言われても納得してしまうような文章である。左派はしばしば「右派=新自由主義」という変な等式を自明視しがちだが、新自由主義批判は左派の専売特許ではなく、「右派からの新自由主義批判」は今も盛んである。これも、ロマン主義がそもそも「新自由主義」批判に親和的であることを考えれば、当然であろう(ちなみに筆者は、新自由主義批判に関しては、それが左からのものであれ右からのものであれ違和感を覚えることが多いが、それはまた別の話である)。

 

成長の限界

 第9章「成長と環境」では、経済成長と環境問題の関係について述べられている。

 そこで当然ローマクラブの「成長の限界」の話が出てくるわけだが、ローマクラブというのはイタリアの実業家とイギリスの化学者が非公式に無名の研究者を集めて作ったチームらしい。そんな秘密結社みたいな組織だとは思っていなかった。

 それはともかくとして、ローマクラブの作った「成長の限界」レポートが注目を集めたのは、オイルショックと時期的に重なったことが原因だ、というようなことをフリードマンは書いている。オイルショック自体は資源枯渇とはなんの関係もないわけなので、結局終末論が流行るかどうかは、その時代の偶発的なイベントに左右される部分が大きいのではないか? と思った*12

 少し長いがp285あたりから文章を引いておこう。

成長の限界』の著者たちは、技術進歩の可能性を過小評価し、また当初の高価格が、使用者に代替物を使用するように奨めたり、新たな供給を刺激したりする際に果たす役割を全く無視したので、このような誤った予測を行ったのである。彼らが概念上のモデルとして採用したのは、本質的にはマルサスのモデルであった。…しかしマルサスは、農業技術の進歩や、従来は遠隔の地にありすぎて役に立たなかった土地で食料を生産する道を開いた新しい輸送方式を含んだ、彼の身の回りで起こり始めていた技術的革新の含意を理解することができなかった。ローマクラブのレポートが出されて以来の30年間の証拠からすると、著者たちは同様に、新しいテクノロジーの力を予想することができず、また価格メカニズムの機能を理解し損ねたのであった。
しかしながら、価格メカニズムの自力での機能は、汚染、グローバルな気候変動、種の絶滅と言った問題を解決するには無力である。これらすべては、外部性――すなわち、私的な行動の社会的帰結――によって引き起こされた市場の失敗の典型的な事例である。

 

 ようするに、ローマクラブはテクノロジーの進歩の可能性を過小評価しており、また価格メカニズムを理解できていなかった、とフリードマンは言っている。とはいえ、価格メカニズムが自力で環境問題を解決するわけではない、ともきちんと申し添えている。例えば、ここ数十年の自動車産業での燃費効率増大と排気現象は、政府の立法によるアメとムチに負う部分が大きいらしい。この話の真偽は分からないが、政府が市場の失敗に適切に対処して環境問題に対応せよ、という主張はもっともなものに思える。

 またフリードマンは、ローマクラブをくさすだけじゃなくて、成長と環境の両立可能性についてもきちんと議論している。主たる論点は先進国における第三次産業(サービス産業)の割合の増大である。サービス産業は基本的に輸出入が不可能なので、先進国におけるサービス産業の割合の増大は、(先進国が第一/二次産業を途上国にアウトソーシングしているということではなく)消費パターンの変化、つまりサービス業への消費の割合の増加を示している。となると、経済発展の初期段階では農業→工業で二酸化炭素排出が進むとしても、工業からサービス部門への転換や技術発展が進めば、二酸化炭素排出は減少に転じるかもしれない(クズネッツ・カーブの環境版だとフリードマンは言っている)。こうした議論がどこまでもっともらしいのか筆者には判断できないが(クズネッツ・カーブと同様に楽観的すぎるのかもしれない)、環境問題を根拠にした脱成長論の多くがサービス業の話を見落としていることを考えれば、重要な指摘なのではないかと思う。

 

 

 最後に、ちょっと文句も言っておこう。本書は、経済成長が社会にとってなぜ重要かを力説している。しかし、「どの程度の成長なら望ましいか」というような議論は、筆者が読んだ範囲にはなかったと思う(記憶違いだったらごめんなさい)。だが、ゼロ成長・マイナス成長が望ましくないとしても、急激な高成長が望ましいとは直ちに言えないだろう。「成長があるか、ないか」だけでなく、「どの程度の成長が望ましいか」というような話にも触れてほしいと個人的には思った。

 

 

 

 そう言えば、筆者が経済関連で初めて読んだ本は、飯田泰之他『経済成長って何で必要なんだろう?』だった気がする。しかしこの本で展開されている議論は、『経済成長とモラル』の議論とはだいぶ異なる。そこらへんについては近々記事を書くかもしれない。

 

 

 というわけで、なんかえらく長くなってしまった。今後も読書メモ記事を続けるとしたら、もっとコンパクトなものになると思う。

*1:ちなみに、筆者が本書の存在を知って、読もうと思ったのは、例によってジョセフ・ヒースが紹介していたためである。例えばここ。

econ101.jp

*2:邦訳は全訳ではなく、ヨーロッパ各国の現代史のパートとか、各論の一部は訳されていないらしい

*3:アメリカ史のパートも、覗いてみた感じでは、データを使って実証というより、質的な歴史記述をやっているように見えた。いや読んでないのであくまでイメージだけど。

*4:この議論の根拠は特に提示されていなかった気がするが、周囲や過去との比較で幸福度が変わるというのは、広く観察されていることだし、進化的な基礎も普通に考えられそうな気がする。

*5:フリードマンは、相対的貧困の概念の重要性を力説している。アメリカの貧困層は、アメリカに住んでいなければ貧困層などとは呼ばれないだろう、みたいなちょっと危なっかしいことも書いてた気がする。現代の日本の論壇では、「問題はもはや相対的貧困ではない、人々は生きることすら危ういのだ」というようなことが言われがちだが、そうした議論を根拠とすると採用できる政策は限られてくるので、「相対的貧困は大問題なんだ」ときちんと説得していく戦略もいいのではないか、と読んでいて思った。また相対的貧困の重要性という論点は、ベーシック・インカムなどの十分主義的な政策にとって大きな課題となるのではないかと思った、が、まぁそんなことは論じつくされているのだろう。

*6:大事なのは、人々に「道徳的に良い欲求」を持たせたり、イデオロギーのヴェールをはぎ取って本来持っているはずの「道徳的に良い欲求」に気づかせたりすることではない。人々が既に持っている「道徳的に良い欲求」が、他の欲求と天秤にかけられた上で最終的に優先される(あるいは、十分に重みづけされる)ような状況をセッティングすることなのである、とまとめられるかもしれない。

*7:これだと大恐慌ニューディールを説明できなくない? との批判もあろう。フリードマンがそれについて具体的にどう論じているのかは分からないが、第7章のタイトルは「極端な例外としての大恐慌」だった。

*8:重田園江『ホモ・エコノミクス』ちくま新書を念頭に置いているが、読んでないので本文では名前を出さなかった。『ホモ・エコノミクス』はもう少し丁寧な議論をしているのかもしれないが、本文で挙げたような議論はかなりありふれている。

*9:いや、我々が言っているのは「お金儲けが全てじゃない」ということであって、「お金儲けがよくない」ということではない、との反論もあるだろう。「お金儲けが全てじゃない」ことには全く同意するし、正直若干藁人形論法になってるかも、という自覚もあるのだが、筆者の目から見ると、「お金儲けがよくない」と述べたいというモチベーションが明らかにあるだろ、と言いたくなることも多い。

*10:そういえば景気は公共財たりうるよ、みたいな話を稲葉振一郎『経済学という教養』ちくま文庫がしてたけど、あんまり覚えていない。

*11:よく現代の「新自由主義」的な資本主義を「むきだしの資本主義」と呼ぶ人がいるが、再分配の動向はどうあれ現代の資本主義は大規模な政府介入なしには存立し得ないのだから、それを「むきだしの資本主義」と呼ぶのは適切でないと思う。

*12:まぁ、オイルショックを経験したことで、資源が枯渇したときどんなことになるかがリアルに想像できるようになったため、成長の限界論がインパクトを持った、とは言えるか。実際その要素も大きそう。