人種特権と多数派特権(ジョセフ・ヒース講演「多数派特権は不正なのか?Is Majority Privilege Unjust?」メモ)

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 先日、カナダの哲学者、ジョセフ・ヒースによるzoomでの講演「多数派特権は不正なのか? Is Majority Privilege Unjust?」*1を聞いた。あいにく筆者は英語をほとんど聞き取れないし、スライドもそれほど充実したものではなかったので、言ってることの半分も理解できなかったが、メモ程度に記録を残しておく(理解が進み次第内容は修正していく予定)。

 なお、以下の記述は想像で補った部分も多く、また筆者は人種問題について全く詳しくないので、不適切な点があればぜひコメントしていただきたい。

 議論の前提として断っておくが、この講演で扱われているのはカナダにおける人種問題である(アメリカなどの人種問題を直接扱っているわけではない)。更にカナダでは、ヨーロッパ系白人が人口的に多数派を占めている。以上を前提として読んでいただきたい。

 

目次

 

人種特権と多数派特権

 ペギー・マッキントッシュPeggy McIntoshは1989年、「白人特権:不可視化されている特権の中身を明らかにする White Privilege: Unpacking the Invisible Knapsak」という論文を発表し、そこで26項目に及ぶ「白人特権チェックリスト」を提示した。白人は自らの特権性に無自覚なので、具体的にどのような特権を持っているのか示そう、という試みである。

 「白人特権チェックリスト」で挙げられている各項目は確かに、白人が享受していて、マイノリティである非白人は享受していないもののように思える(以下、白人は実際にこれらの特権を持っていると仮定した上で話を進めていく)。しかし、(少なくともカナダにおいては)ここで挙げられている「白人特権」の全てが人種差別によるものというわけではない。*2

 ここで有用になるのが「人種特権」「多数派特権」の区別である。人種特権とは、白人特権のうち人種差別に由来するもの、多数派特権とは、白人特権のうち白人が人口において多数派であるという事実に由来するもの、と整理できるだろう。

 「白人特権チェックリスト」で具体的に確認すると*3、例えば

4.大抵の場合、嫌がらせを受けたり尾行されたりすることなく、一人で買い物に行けると思える。

や、

19.警察の交通取り締まりを受けたり、国税庁が納税申告を監査してきたりしたとしても、自人種が差別されているからそのようなことになったのではないと思える。

 といった項目は、白人が人種差別的取り扱い故に享受している「人種特権」であると言える。マイノリティが「買い物に行くだけで嫌がらせを受けたり尾行されたりすること」や、「警察や国税庁によって人種差別的取り扱いをされること」は、人種差別によって生じているからである。

 しかしながら例えば、

1.同じ人種の人間と付き合おうと思えば、大抵の場合付き合うことができる。

9.CDショップに行けば自人種の音楽を確実に見つけることができ、スーパーマーケットに行けば自人種の食文化で伝統的に主食とされている食品を見つけることができ、美容院に行けば(自人種の髪形に)髪を切ることのできる美容師を見つけることができる。

20.同じ人種の人々が描かれたポスター、絵はがき、絵本、グリーティングカード、人形、おもちゃ、子ども向け雑誌を簡単に買うことができる。

 といった項目は、白人がマイノリティよりも自らの選好を満たしやすい(逆に言えばマイノリティはその選好を満たすのが白人よりも困難である)という状況を示している。このような特権は、白人がカナダにおいて人口的に多数派を形成しているという事実に由来する「多数派特権」であって、人種差別に由来する特権ではない。

 

 このように人種特権と多数派特権を区別するとして、人種特権が不正であることは多くの人が合意するだろう。しかし、ある社会的グループ(ここでは白人)が、単にその社会で多数派を形成しているという事実に由来する「多数派特権」は、果たして不正なものと言えるだろうか

 例えば、右利き人口は左利き人口よりも多いことが一般に知られている。実際に、ハサミやパソコンのマウスなどは右利き用のものが圧倒的に多く、左利き用の製品は少ない。これは、右利きが人口的に多数派を占めていることに由来する「多数派特権」であると言える。*4

 しかし、右利きのこうした「多数派特権」が不正である、と非難するのは、直観に反するのではないだろうか*5

 

議論の前提

 以上は、人種特権と多数派特権を区別すべきだという議論であったが、ここでヒースは、この先の議論を進めるにあたって、いくつかの主張を、議論の余地のない前提として提示している。

①私たちはユニバーサルデザインを支持すべきである

②単純な多数決による決定は望ましくない

③「不当unearned」であることと「不正unjust」であることは違う

 ①、②についての解説は不要だろうが、③については少し説明が必要だ(とは言ってもヒースの説明を聞き取れたわけではないので、ここでの議論はかなり筆者の想像に頼ったものとなるから、大間違いな可能性もある)。

「不当unearned」であることと「不正unjust」であることは違う

 まず「不当unearned」という言葉を説明しておこう。不当unearnedとは不労所得unearned incomeのような形で使われる語で、earnせず=労せず得たものであるということを示す形容詞である。

 さて、同義反復的な確認になってしまうが、自らがそれに値するような選択や努力を行っていないにも関わらず(例えばある属性を持った人間として生まれただけで)、他の人とは異なる状況に置かれること(何らかの抑圧を受けたり、特権を持ったりすること)は、不当unearnedであると言えるだろう*6

 かと言って、それが直ちに不正unjustか、すなわち正義に適わないかと言われれば、やはり疑問が生じる*7先の右利き特権の話を思い出そう。右利きと左利きでは社会において待遇が異なるが、それはただちに不正なことだと言えるだろうか。正義に適わないということは、正義に適う状態にすべきだということを含意していると普通考えられているが、では右利きの人間は特権から降り、正義に適った状態を実現すべきなのだろうか。

 以上のような、「不当=不正」ではないという直観が正しいならば、不当であることと不正であることは分けて考えるべきだろう。そして、多数派特権は、不当ではあるかもしれないが、直ちに不正とは言えないと考えるのが妥当であるということになるのではないだろうか*8

 

4つの問題

 さて、ここでヒースは、多数派特権やマイノリティの選好についての議論を行う際に考慮すべき4つの問題があると言う。一つ一つ見ていこう(以上の部分よりも更に理解できていない部分なので、ますます歯切れの悪い&信頼できない記述となる)。

 

①複雑さcomplexity

 マイノリティの選好について考える一つの道具立てとして、費用便益分析がある。つまり、マイノリティの選好を保護することの費用と便益を考えて、費用が上回ればマイノリティには多数派の選好に従ってもらい、便益が上回ればマイノリティの選好は保護される、という考え方である。

 しかし、この議論と、近年注目されているインターセクショナリティintersectionalityという概念をかけあわせると、問題は非常に複雑なものとなる。

 インターセクショナリティとは、簡単に説明すると、個人は複数の属性を持っており(人種、ジェンダーセクシャリティ、階層、障害の有無など)、その組み合わせによって、受けている差別や保持している特権の種類・性質も異なり得る、ということを示す概念である。

 インターセクショナリティの議論を受け止めるなら、ある領域で多数派に属する人が、別の領域では少数派に属する、ということになる。このようにして考えていくと、考慮しなければならない人々のセグメントがあまりに多くなりすぎてしまう(人種という括りなら、セグメントはそんなに多くはならないだろう。しかし、「男性、白人、階層上位に属する、障害を有していない」といったところまで詳細に見てしまうと、セグメントは非常に細かくなってしまう)。

 では、このように膨大なセグメントを考慮して費用便益分析を行うことは可能だろうか。結論からいれば、それはあまりにも複雑で、実行不可能なほど困難だろう。

 

②選好の可変性 preference change

 選好は、しばしば可変的なものである。ヒースも、香港にいるうちに(そこにおいて白人、カナダ人のヒースは少数派である)中華料理の味に親しむようになったらしい。つまり、マイノリティが食事について(多数派とは異なるような)ある選好を持っているとして、それは固定的で絶対的なものではなく、環境が変われば容易に変わり得るものなのである。

 よって、マイノリティの選好を保護することにコストがかかりすぎたり、多数派の選好に合わせてもらうことがはるかに効率的であったりするような場合、マイノリティ側に多数派側の選好への適応を求めることは合理的である。

 

③仮想的状況の恣意的な想定 gerrymandered counterfactual

 「もし現実の社会においてマイノリティであるところの社会集団が、社会の多数派を占めていたら」という反実仮想的状況を考えてみよう。このような状況と現実の状況を比較すれば、現実におけるマイノリティは確実に反実仮想的状況におけるマイノリティよりも不利な立場にあると言えるだろう。従って、現実社会には不正が存在する、という議論が成り立つように思える。

 しかしこの議論は間違っている。現実の社会と多くの点で異なるような反実仮想的状況を想定してしまったら、マイノリティであれマジョリティであれ、誰もがその反実仮想的状況よりは不利な立場に立たされている、と言うことができてしまう。反実仮想的状況を想定して、マイノリティに対する不正を論証しようとする議論は、恣意的なものであると言わざるを得ない。

 

④平等主義的基準 egalitarian baseline

 しかしでは、マイノリティの選好について私たちはどのように考えればよいのか。ここでヒースは政治哲学者ロナルド・ドウォーキンの議論を参照する(正直に白状すると、筆者はこの部分をほとんど理解できなかったので、不正確な上によく分からない内容になってしまっている)。*9*10

 消費者の行う選択は、言うまでもなく他者に影響を与えてしまう。コーヒー1杯を消費することで当人は満足を得るが、そのことによって同時に社会にとっての損失(その1杯のコーヒーを飲みたかった他の人からコーヒーを取り上げているだけでなく、その1杯のコーヒーを生産するために使われた労力や時間や、あるいは土地、etc…を、それを使って他の何かを生産してほしかった人から取り上げている)も生み出される。あえて言うなら、全ての消費は「人に迷惑をかける」のである。*11

 では、その消費による「迷惑のかけ具合」はどのようにして決まるのだろうか。平たく言えばそれは、需要と供給によって決まる。つまり、他の人がどれほどコーヒーを必要としているか(需要曲線)、コーヒーをもっと生産するのにどれだけ手間がかかるか(供給曲線)、によって、その消費がどれだけ「人に迷惑をかけるか」が決まるのである。

 それゆえ、需要と供給によって決定される「価格」は、その消費がどれだけ「人に迷惑をかけるか」を反映している。つまり、コーヒー1杯を飲むために、需給で決定されるコーヒー1杯の価格を支払うということは、「そのコーヒー1杯を消費するために人にかけた分の迷惑」を補償するということである。更に、私たちが価格に応じて商品を購入するかしないかを決定するということは、「それを消費することで人にかける迷惑を補償するのに必要な分の金額」が、「それを消費することで自分が得られる満足」と釣り合うかを見定めるということなのだ。

 その商品を消費することで生じる迷惑に釣り合うほどの満足が得られるとき、従ってその迷惑を補償する分の金額を支払うにやぶさかでないときにのみ、その商品の消費(とそれによってかかった迷惑)は、消費者の満足によって(道徳的に)正当化される。*12

 さて、マイノリティの選好について考えよう。マイノリティが自らの選好を満たすことによって「人にかけた迷惑」を、マイノリティ自身が補償する限り(=「人にかかった迷惑」がマイノリティ自身の満足によって正当化される限り)において、マイノリティは望む限り自らの選好を満たしてよいはずだ。つまり「迷惑のかけ具合」がきちんと価格に反映されている限り、そしてその「迷惑」分を補償する気がある限りにおいて、マイノリティの選好は満たされるべきである、ということになる。

 

終わりに

 以上でメモは終わりとなる。筆者自身、講演の内容をよく理解できているわけではないので、とっ散らかった文章になってしまったが、そこはメモということで許してほしい。また繰り返しになるが、本記事は英語を聞き取れもしなければ人種問題に精通しているわけでもない筆者が、英語で行われた人種問題に関する講演について記したメモであり、想像で補った部分もたくさんある。そこらへんはしっかり考慮して読んでほしい。

*1:Majority privilegeを「マジョリティ特権」とせず「多数派特権」としたのは、「量的に多数であることによる特権」ということを強調するためである。「マジョリティ特権」という言葉を使うと、恐らく「量的に多数」であることとは関係のない様々な特権も指している語と見なされてしまう恐れがあったので、このような表記にした。

*2:「特権」という語・概念を使うべきか否か、みたいな議論もあるだろうが、それについては本稿では無視する。「特権」概念の不毛さ - 道徳的動物日記を参照。

*3:以下は拙訳なので、訳が間違っていたりしたら指摘してほしい

*4:tumblrには「右利き特権 This is Right Privilege」というページがあり、「右利き特権」は既に反-反差別界隈のネタとして普及してる模様。tumblrは左派系のサイトとされているが、このページの概要欄には、風刺を意図したものだと明記されている。

*5:でも左利き用の製品が少なすぎるのなら増やすべきではあるんじゃないの、と考える読者もいると思うが、すぐ下で見るように、ヒースはユニバーサルデザインを肯定している。ここで問題になっているのは、「多数派特権」が不正か否かということである。

*6:日本語において「不当」という語は「不正」とほぼ同じ意味を持っていると思うので、本当はもっと違う訳語にしたかったのだが、うまく思い浮かばず結局「不当」という語を用いることになった。また、例えばToxic Culture: Unearned Privilege - Woman Around Townという記事では、unearned privilegeを「生まれながらの特性、社会的地位、人種、階層、ジェンダー、結婚か非婚かといったことを理由にして、個人や集団にもたらされる利益で、実際のところそれに値する努力によって得られたのではない特権Benefits accrued to a person, or groups of people by virtue of birth, social status, race, class, gender, married status, in fact any privilege not based on hard work or extra effort to deserve it.」と説明している。要するに、unearned privilegeとは、 然るべき選択や努力によってもたらされたのでない特権のことを指していると思われる。

*7:この点がいわゆる「運の平等主義」との相違点である。運の平等主義は、自律的な選択によって当人が引き受ける「選択的運」と、自律的な選択によらない「自然的運」を区別し、「自然的運」が当人の取り扱いに影響を及ぼす状況を「不正」と考える。ここでの議論はそれに対し、「自然的運」という「不当」な要因が当人の置かれる状況を決めるとしても、直ちに不正とは言えない、と主張している。更に、ロールズのように、ほぼ全てのもの(選択や努力といった、通常「選択的運」に含まれるものまで)を「自然的運」に含める議論も存在するが(近年の人文系の議論ではむしろスタンダードになりつつある)、ここでは取り敢えず無視する。

*8:というかこの不当unearnedと不正unjustを分ける議論、もしかして有名な元ネタがあるのか? 知っている方いたらぜひ教えてください。

*9:一応、ドウォーキンの名前が出てきたので、『資本主義が嫌いな人のための経済学』NTT出版ドウォーキンも参照しつつパレート効率がなぜ道徳的に望ましいかを説明している部分(第7章「公正価格という誤謬」のp181-184)、およびドウォーキンについて解説している瀧川・宇佐美・大屋『法哲学』有斐閣p110を参照した。本文にもある通り本稿で最も自信がないパートなので、慎重に読んでほしい。

*10:ちなみにヒースは、ドウォーキンはオークション分かってないよねという論文を書いてるらしいのだが、まだ読めてない。

*11:こういう話題で「迷惑」という語を使うと反発買うような気もするが、他にいい語が思い浮かばないので使用することにした。一応言っておくが、マイノリティであろうと誰であろうと、消費をすればその分「人に迷惑がかかる」のである。

*12:この(道徳的)条件が満たされるのは、現実的には価格が需給を(従って「迷惑のかけ具合」を)反映しているときのみである。