メリトクラシー論の(再)整理

 ネットを開けばメリトクラシーは諸悪の根源であるかのように叩かれているが、そうした批判においてメリトクラシー(あるいはその弊害)と名指されているものが果たして同じものなのかと言われれば、はなはだ怪しいように思われる。誰もがメリトクラシー批判を行い(そうすることで連帯し)ながら、そこで批判されているものの内実が異なっているとしたら、健全な議論は望めないだろう(早晩、エコーチェンバーの範囲を区切る装置として機能するようになるはずだ)。

  こういうときまず必要なのは、メリトクラシーという語の用法を分析して、意味を明晰にすることであろう。しかしメリトクラシーという語は、素人のみならず、玄人(=プロの教育社会学者)の議論の中ですら様々な意味を付与されているため、用法の分析はなかなかにシンドい作業になることが予想される。*1

 そこで、本記事では、メリトクラシーという語それ自体ではなく、メリトクラシーという語を使って行われている議論、すなわちメリトクラシー論を整理してみたいと思う。なおここで扱うメリトクラシー論は、アカデミックな議論というよりもむしろネット上で行われている「素人」の議論の方である。

 そういうわけで、メリトクラシーという語それ自体の分析は本記事では行わない。とはいえとりあえずの定義を与えておかないとメチャクチャな議論になってしまうので、前記事で与えた「メリトクラシーとは、能力を基準に選抜を行う仕組みのことである」という定義を踏襲することにしたい。実際、メリトクラシーという語で名指されるものを可能な限り包括的に捉えようとすれば、こうした定義に落ち着くと思う。*2

 ここで、「では能力とは何か?」という別の問いが浮上する。例えば前記事で紹介した教育社会学者の竹内洋と中村高康は、能力は社会的に構築されるとの立場に立っており(詳しくは、とりあえず中村高康『暴走する能力主義』ちくま新書、2018を参照)、その立場から非常に説得的な議論を展開している。が、(繰り返しになるが)本記事で分析したいのは「素人」のメリトクラシー批判であるから、「能力」の定義についても「素人」の粗雑な議論にあえて乗っかることとしたい。そこで便宜的に、

 能力とは、仕事において高いパフォーマンスを実現するもののことで、生得的なものと獲得されたものの両方を含む。また個人によって差があり、序列が存在する。

 という定義を与えておこう(もちろんこの定義が正しいとか言うつもりは一切ない、というか大変問題があることも承知している)。この定義は、一般的な「能力」定義をある程度反映しているし、議論が簡単にする上で好都合である。*3

 

 さて、以上の大変粗雑な定義を踏まえた上で、メリトクラシーに関する議論、論点を切り分けていきたい。

 まず問題となるのは、メリトクラシーと、教育における学歴(学校歴)取得競争との関係である。学歴は能力を反映していない(よって本当のメリトクラシーじゃない)という意見も根強い一方で、能力を基準にした選抜と言えばやはり学歴取得競争が最も大規模かつ一般的なものであるのも事実だ。

 そこで、以下では学歴取得競争を「学力メリトクラシー」と名づけることにする。この学力メリトクラシーが(真の)メリトクラシーか否か、すなわち地位達成に影響し、能力を反映しているか否か、という事実判断を、メリトクラシー論の性質を決める最初の特徴としよう。

 その上で、(学力メリトクラシーを筆頭とする)能力による選抜・序列づけが認められるか否か、という論点から、様々な議論が派生していく、と考えると、メリトクラシー論にある程度スッキリとした見通しが与えられる。

 以上のことを念頭において、メリトクラシー論を実際に切り分けてみたのが、以下のマップである。

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メリトクラシー論マップ

 むろんこの図は急ごしらえであって、穴もたくさんあると思うが*4、一般的なメリトクラシー論の大部分は、以上の論点の任意の組み合わせとして、一応整理できるはずだ。あるいは、メリトクラシー論は以上の視点を多かれ少なかれ持っているが、重きを置いてる論点がそれぞれに違う、と捉えることも可能である。

 また、スッキリとした図にするために(って、スッキリしてないか)、アクロバティックなつなぎ方をした箇所がある(図の赤線)。この赤線を導入してしまったせいで(というかそれ以外のうまいやり方が思い使ったのだけど)、「能力による序列づけは原理的に許容できる/できない」というボックス以下の選択肢については、「能力による序列づけ一般」についての論点と、「能力による序列づけの一つの方法としての学力メリトクラシー」に固有の論点が混じってしまっている。読者を混乱させてしまうようで悪いが、もっと良いやり方を思いついたら修正することにしたい(妙案ある方いれば教えてください)。

 一応補足しておくと、「ハイパー・メリトクラシー」というのは教育社会学者、本田由紀の造語で(詳しくは前の記事を参照)、ここでは学力に収まりきらない、コミュニケーション能力やら主体性やらといった「新しい能力」によって選抜が行われる状況を指す。これだけだと漠然としているので一応具体例を示すと、最近の大学入試改革の一環として登場し、最終的には導入されずに終わったJapan e-Portfolioという評価システムが挙げられる(この制度の弊害については、中村高康氏の以下の記事を参照。生活全部が「受験」になる…大学入試改革「主体性評価」の危うさ(中村 高康) | 現代ビジネス | 講談社(1/7))。付言すれば、現代社会は学力メリトクラシーであるとかハイパー・メリトクラシーであるといった議論は基本的に不毛で、両者がどの程度の比率でブレンドされているか見極めることが肝要である。

 ちなみに、この図で全ての論点を挙げきれたとは思っていないが、意図的に含まなかった議論もある。「能力による所得・地位格差(一般)」や「所得・地位格差(一般)」がなぜ問題であるのか、という議論である。これについての議論は、それこそ現代リベラリズムから、優生思想との関わりがどうだ*5、「新自由主義」がどうだ、といった議論、更に「能力」ではなく「個性」を重視すべきだといった(一昔前の?)教育論まで、(支離滅裂なものも含み)たくさんなされている。その全貌を筆者が把握しきれなかったのと、挙げてもきりがない(そして図に収まらない)ため、マップでは割愛した。

  昨今ネット上で盛んになされている、資本主義/リベラル/フェミニズムは、メリトクラシーを批判してない、これは欺瞞だ、という類の議論は、このマップで挙げられた任意の論点を資本主義/リベラル/フェミニズム無視している、という議論である、とまとめられるだろう(これらの議論の当否をここでは問わない)。

 

 さて、直近で盛り上がったメリトクラシー論議は、マイケル・サンデルの新刊『実力も運のうち』早川書房、2021の影響からか、主観的問題(エリートの驕り、非エリートの劣等感)にフォーカスを当てたものが多かった*6そうした主観的問題についての議論の持つ動員力は過小評価すべきでないが、しかし結局「やっぱりノブレス・オブリージュが大事だよね」「学歴にこだわるのはよくないよね」といった「心がけ」の問題に回収されてしまうか、さもなくばメリトクラシー全廃論に傾いてしまって、プラグマティックな制度改良に結びつきにくいということも事実であるように思われる。筆者は、メリトクラシー自体は一概に否定されるべきものでもなく、客観的不平等(機会不平等、学歴不平等その他)を地道に、適正規模に是正していくことの方が大事だし、メリトクラシーへの過剰な意味づけは(メリトクラシー自体の問題ではなく)社会の側の問題である、と考えているので、昨今のサンデルブームに素直に乗れないところがある。

 それと微妙に関連するが、メリトクラシー論は(上のマップで整理したような)内容だけでなく、そのスタイルによっても区別される。大まかに言ってしまえば、メリトクラシー論には自分の経験や感情を開陳する「実存的な語り」と、データを淡々と並べていく「実証的な語り」という2つのスタイルがある。これは概ね、それぞれ主観的問題と客観的問題に対応するが、必ずしもそうなるわけではなく、例えば自らの体験した地域格差文化資本格差(という客観的問題)を実存的に語る、というタイプの語りも多く見られる。少し前に話題になったこの割れ切った世界の片隅で|鈴|noteなんかは、実存的な語りと客観的な語りを混ぜた文章だろう(それゆえ多くの人の心を動かしたのかもしれない)。

 誤解しないでほしいが、筆者はメリトクラシーについての実存的な語りを否定していない、というかむしろ肯定している。不平等は見えないよりも見えた方がずっといいし、実存的な語りは見えにくい不平等を露わにする機能を持っていると思う(実証研究で決着がついている話も、そのままダイレクトに人々に伝わるわけではない)。*7筆者が批判的な態度を取っているのは、主観的な問題に偏重したメリトクラシー批判である。

 ただし一つ注意しておくべきは、どの不平等が最も深刻な不平等か競争を、実存的な語りによって行うことは避けた方がよい、ということだ。学術的に、数ある不平等のどれがどの程度深刻なのか探ることは大切である(それはどのような政策的アプローチをとるべきかということに直結するから)。しかし、実存的な語りによって「この不平等が一番深刻だ」と主張しだすと、議論は泥沼にはまる。そりゃ誰だって自分が経験した不平等が一番深刻なものだと考えがちだし、別の不平等の当事者の語りがバズってるのを見れば、「いやもっと深刻なのはこういう不平等だけどね」と口を挟みたくなるものだ。不平等語りの基本マナーとして、「自分はこういう不平等を経験してきた」という発言はむろん否定されるべきでないが(というかむしろ広がるべきですらあるが)、「だから別の不平等は無視していい」とか、「こっちの不平等の方が深刻だ」とかといった発言を添えるべきではない

 いずれにしても、このマップによる整理は一つの試案でしかないから、批判やアドバイスは大歓迎である。また本記事は、「メリトクラシー論/語りはかくあるべし」と主張するものではないから、本記事が抑圧的に(ある種の不平等語りを制限するように)働くとしたら、それは本望ではない。これからも「素人」によるメリトクラシー論は大いに語られるべきだ。しかし、より丁寧で繊細なメリトクラシー論が増えることは望ましい、ということもまた事実である。そういう意味で、本記事は、「メリトクラシー論/語りはこうあるといいよね」(適切に議論を切り分けた方がいいよね)という呼びかけ程度のものとして受け取ってほしい。

 

おまけ:メリトクラシーを巡る不平等の種類

 上のマップや文章で混乱してしまった読者もいるかもしれないので、「メリトクラシーを巡る不平等を分類する図」を作ってみた。例によってこれも急ごしらえなので、ツッコミどころはあるだろうが、議論の整理に資すればと思う。要するに、メリトクラシーにおける不平等には色んなものがあって、それを取り違えちゃダメよね、ということである。

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メリトクラシーを巡る不平等の分類

 詳しく説明しよう。まず、試験の手続き自体が不平等であるという、分かりやすい不平等を手続き不平等と呼ぶ。これは、コネや賄賂がまかり通るようなものから、特定の人種や性別の受験生に対し異なる取扱いをするもの、更には主観的、恣意的な基準が混ざりこみやすい面接試験、調査書重視型の入試のようなものまでを指すこともある*8

 そうした手続き不平等がなくなった(手続き平等)としても、純粋な学力試験の結果自体に、生まれによる差が生じている場合、それを機会不平等と呼ぶ。機会不平等を生じさせるメカニズムについては、単純な家庭の経済力から、文化資本=文化的再生産論まで、様々なものが考えられている(上のマップ、あるいは前の記事を参照)。

 さて、そうした機会不平等がなくなった(機会平等)としても、そもそも学力(学歴、学校歴)によって選抜を行い、地位配分を決めること自体が不平等だ、という立場がある。これは学歴不平等を批判する立場と言える。これには、そもそも学力は能力を反映していないのだから、そんなもので地位を決めるのはおかしいというものから、学力は能力を反映しているにしても、そもそも能力で地位を決めるのはおかしいというものまで、様々な立場がある。

 しかし、学力に限らずどんな指標であれ、それによって地位を決める、順位付けすること自体がおかしい、そもそも地位や序列があることがおかしい、という立場もある。分業が行われている状態で、各職種によって所得や社会的地位に差が生じていること自体を不当と見なす立場である。これは、結果不平等を批判する立場と言える。

 

 以上の区分けはあくまで理念型である。例えば私は現在の結果不平等を不当なものと見なしているが、だからと言って完全な結果平等を目指すべきだ、などとは思っていない。このように、人々は様々な不平等を批判したり許容したりしているが、その基準は程度問題であって、完全な平等を目指すべきだ、というラディカルな立場の人はそう多くない(完全な機会平等は親と子を分離して育てることだし、完全な学歴平等は学歴差による処遇差を全てなくすことだし、完全な結果平等は完全同一賃金である。ただし、手続き平等については完全な平等を目指すべきだとする人が多いはずだし、そうあるべきだと筆者も思う)。

 

 さて、ネット上のメリトクラシー批判の中には、かなり雑で、いったいメリトクラシーのどこを批判しているのか分からないもの、明らかに的外れなものが散見された

 具体例を挙げよう。ネット上で、単なる世襲議員の驕った発言を「メリトクラシーの弊害だ」と批判している人がいた。この批判はやはり筋悪である。前の記事で書いたことと重なるが、メリトクラシーは、現実にはアリストクラシーになっている、つまり機会不平等であり階層固定に寄与しているとしても、原理的には血縁やコネによる選抜と異なった選抜システムである。この点を見逃すべきではない。機会不平等(という隠された不平等の)批判が、どストレートな血縁・コネによる不平等(というむき出しの不平等)への批判を弱めさせてしまうとしたら、それは不幸なことである。

 こうした雑で的外れな批判は、メリトクラシー擁護/容認派にとっていい迷惑であるばかりか、メリトクラシー批判の精度をも落とすことに繋がる。そういうわけで、メリトクラシーを肯定するにせよ否定するにせよ、適切に議論を切り分けることがやはり肝心である。

*1:原義(「メリット=知能+努力」により選抜された階級による支配。マイケル・ヤングによる)を参照するというやり方もあるが、メリトクラシーという語が原義以上の意味を帯びて流通してしまっている以上、それだけでは片手落ちである。

*2:ちなみに前記事では、メリトクラシーは「実際には、教育における競争によって選抜を行う、という形をとる。」としているが、本記事では「学歴は能力を反映していない」というメリトクラシー批判も扱わなければならない以上、こちらは採用しない。

*3:本田由紀『教育は何を評価してきたか』岩波新書、2020の第2章では、以上のような能力の定義が持つ問題が指摘されている。が、本記事においてはさしあたり無視するものとする。

*4:筆者は教育社会学プロパーでもなんでもないが、基本的に社会学系の議論にしか触れたことがない人間なので、「素人」のメリトクラシー論議を見る際も、社会学っぽい枠組みでしか捉えられてない可能性が高い。他の枠組み(とりあえず教育経済学、とりわけ人的資本論や、労働経済学、規範的議論であれば現代リベラリズムとその周辺とかはパッと思いついたが、他に何かありますか?)から見れば、メリトクラシー論はもっと違った形で整理されるだろうから、誰かお詳しい方いたら教えてほしい、というかその視点も織り込んだメリトクラシー論マップを作ってほしい。

*5:ちなみに「優生思想とメリトクラシー」については、そう言えば立岩真也『私的所有論』勁草書房、1997にそんな議論あったなぁと読み返してみて、やっぱりよく理解できず(というかあの独特の文体にやっぱりなじめず)放り投げたという経緯が、一応ある。

*6:例外的にメリトクラシーの与えるプラスの主観的影響(=誇り)について論じているのが、デビット・ライス氏の以下の論考。能力主義は魅力的である(読書メモ:『実力も運のうち』②) - 道徳的動物日記

*7:しかしまぁ本音を言うと、ネット上に踊る、上昇インテリによる文化資本語り(という機会不平等語り)については、ときどき「不毛だなぁ」と思わされることがある。筆者も都内に住んでないし私立校出身でもないし中高一貫校出身でもないから、そういう人たちに文化資本的なコンプレックスを感じることはあるし、「あいつらより自分の方が『現実』を見てきた」と思うこともある。が、それ自体空虚なマウンティングだろう。だいたいそれをやり始めるとキリがないし、そうした妙な劣等感は「自分の文化資本」、「強者である自分」を見えにくくする装置でしかない。

*8:違和感を覚えた読者もいるかもしれない。が、諸外国だと、面接試験で都市/地方や高所得層/労働者階級の口調、ふるまいがもろに現れ、それが実質的に地方出身者/労働者階級を選別し排除する機能を持っている、という批判は、メリトクラシー批判の典型的なパターンである。これが日本の場合だと、面接のような試験は排除され、標準的に形式化された一斉学力試験が主流だった=手続き平等だったので、その分機会不平等が見えにくかった、という経緯がある。詳しくは前の記事を参照。